来年はきっと良い年に

今日で仕事納めにする予定。この1年を振り返ると、仕事的には代表を若い人に譲って、収入が減る事になったことぐらいで、個人的には特筆大書するような事は何も無く、相も変わらずの年だった。これも毎年のことだが、
年末になると毎年思うのだ。「来年こそは何か良い事がありそうだ。」しかし冷静に考えれば、70歳を越してこれは少し虫が良すぎるかもしれない。本当は、生き永らえるだけでめっけものとしたものだろう。

ぼちぼち冷静になって、もっと平穏に淡々と生きる事を身につけなければいけないのかもしれない。先日古い友人と懐旧談やら近況報告をしあった時に言われてしまった。「君、それは少し見栄の張り過ぎではないかえ。」たしか、会社代表の譲り方とか家族との関わり方についての話の時だった。これからの安心に保険をかけるつもりで、それなりのやり方でやってきたつもりだが、彼に言わせると「甘い、甘い。今までの見返りを期待するなんて。男は死ぬまで自分の事は自分で始末しなきゃ。」とかなり無理な事を仰る。

そんな事で、冒頭の生臭い思いが湧いてくる次第。別に欲ボケするつもりはないし、ポンコツになりかかっているものの、今のところ身体に大きな支障もない。昔から人並み以上の才能は何も持ち合わせないのに、なんとかここまで来たのが自分でも不思議だ。駆けっこでは何周も遅れて走ったり、普通の人がとっくにやり遂げた事を随分と、場合によっては最近の山歩きのように何年も後からボチボチするのは得意中の得意。「鶏口となるも牛後となるなかれ」の正反対、牛の最後尾、いつも鶏の殿集団の中でボチボチ歩くのが好みである。

しかし、会社勤めを辞めてから、偶然の所産で随分趣旨と違う事に嵌ってしまったが、これもそろそろ終わりにしよう。と思いながらも、また残りものの福を期待して、神頼みを続けているのだからいい気なものだ。昨日碁会所で、中学1年生の坊やに5目置いて、碁を教えてもらった。坊や曰く「冷静になったり、強気になったり、考え方が一貫していませんね。」
要するに、言う事成す事常にバラバラ、これも毎度の事で困った性格だ。

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