2010年8月26日木曜日

読後感「孤高の外相 重光葵」豊田 穣 著

明治20年生まれで同44年入省の外務官僚、昭和7年駐華公使時代中国との間で上海事変の停戦決議に尽力、欧米諸国の協力の元、何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において爆弾テロに遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。後に欧米の公使歴任の後、駐ソ公使となった時張鼓峰事件の停戦交渉でソ連と激しくやり合い、戦後の東京裁判に響いてくる。戦時中は東条内閣小磯内閣において外務大臣を歴任。

更に敗戦直後に組閣された東久邇宮内閣で外相に再任され、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという屈辱的な役目を引き受ける。そして東京裁判で大戦前ソ連と激しくやり合った恨みを買って有罪判決を受け、5年弱の服役と苦難な道を歩んだ。サンフランシスコ条約の発効後に釈放、追放解除されてから再び政治の道に戻り、改進党総裁となって総理大臣の座を同じ外務官僚の吉田茂と争う事になるが、結局は総理になる事は出来なかった。

大分県の出身で明治の男らしい剛毅さは勿論だが、非常にクールな所があった人らしい。昭和の初めから終戦まで日本の政治は、現在の中国や欧米各国との競り合いが国家の最重要課題であった。当然その道のプロである外務官僚達が活躍し、その力に負うところは少なくなかった。だがしかし、肝心な場面における彼等の献策は殆ど入れられていない。政治の大きな流れは軍部や右翼の意見に引き摺られたのが事実である。

どうしてなんだ、外務官僚は権力に媚びすぎるのではの思いも無いではない。しかし当事者からすれば、損な役回りばかりだったという思いもあるだろう。後世の我々もその辺については歴史をしっかり勉強したうえで、認識しなおす必要があるかもしれない。世に特筆大書されていないが、本書で学んだ事が一つある。

マッカサー連合軍総司令官が日本に着任早々(総司令部第1次指令)やろうとした事は、当面軍政を敷く事だった。重光はこれを知るや翌日マッカーサーと緊急会談を実現、この決意を翻意させた。つい先日みじめな思いで敗戦の署名をした人間からすると、このような申し入れをするなんて事は、よほど腹が据わっていなくては出来る事ではない。

結果は彼の要求が通り、この指令が撤回され総司令部監督のもとで、日本政府を通じてポツダム宣言を実行せしめることになったのだ。日本は占領政策の手本のように言われるが、その裏にこんな事実があった事を知る人は少ないだろう。歴史とは不思議なもので、つまらない事実がいつまでも残り、本当に意味のある事が忘却の彼方に埋もれてしまう事を知った。

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