2010年7月7日水曜日

読後感「墨染の鎧」上下巻 火坂雅志 著

2009年NHK大河ドラマ原作『天地人』で一躍脚光を浴びた著者の作品を読むのは初めてだが、大変面白かった。学生時代から歴史小説家を目指していたとの事で、22年前のデビュー以来数多くの歴史小説を発表している。54歳だから未だ書き盛りであろう。

主人公安国寺恵瓊の活躍は戦国時代、お坊さんでありながら毛利藩に仕えて、使僧(他国との外交交渉の任に当たる)として全国を飛び回り、情報を旨く管理する事で元就公の毛利藩の安定に貢献して、尚3人の息子達からも一目置かれる存在になっていく。と同時に他国大名などからも着目され、特に織田の部下であった羽柴秀吉とは互いに信じあう関係に迄なり、終には四国に領地まで与えられ大名にまでのし上がってしまう。秀吉亡き後は石田三成と手を結び互いに助け合うが、最後は本家の毛利輝元を西軍総大将に担ぎ出し関ヶ原の戦いに挑む事になる。

しかし皮肉な事に恵瓊が子供時代から面倒を見たと思い、軽く見ていた(西軍として戦うのは当たり前)毛利支藩の吉川広家、小早川秀秋両軍の寝返りで負け戦となってしまう。恵瓊自身が生涯かけて行ってきたように、戦国時代の調略合戦は凄まじいもので、この期に及んでは家康側の調略が優っていたことに他ならない。結局彼は三成と同様捕えられて、堺大阪引き回しの上京都六条河原で斬首、三条大橋のたもとで晒し首と言う極刑(武士としての最後に切腹を許されない事)で終わる。

歴史を知らなすぎるからかもしれないが、時代小説は歳を取っても面白い。安国寺恵瓊が西軍の責任者として最も重い斬首の刑にあった理由がやっと分かった。
戦国時代の下克上では尾張の百姓の倅が関白にまでのし上がったりして、出世物語が数多いが、家来と言う者を一人も持たずに一代にして大名に成り上がったのはこの恵瓊一人ではなかろうか。著者は歴史に一つの疑問を抱いて、大きな脚色を試みている。

安国寺恵瓊は、安芸武田家が毛利元就に攻め滅ぼされた時に落延びた武田家の忘れ形見である。それが安国寺で育てられ、長じて坊さんになってから仇の元就に見いだされて恩讐を超えて毛利家に尽くした。歴史的にはとされているようである。著者は考証していく中で、これを裏付ける資料に乏しい事から、そうではなくて一緒に落ちた家来の倅が、殿様の息子が夭折したのを幸い、若い時にすり替わって生涯嘘を貫き通した、としているのだ。

生涯かけて虚々実々の駆け引きで、諸国を手玉に取って来た主人公の生い立ちには実に相応しい設定である。それにしても通信手段が現代とは比較にならない時代の戦国時代でありながら、大名侍は情報を得るのにどんなに苦労をした事だろう。恵瓊は禅宗の寺で修行している。鎌倉以降武士の間で禅宗が広く普及した事は知られている。恐らくこのネットワークが重要な役割を担ったのかもしれない。武士が戦の度に寺院や坊さんを破壊殺戮しながら、直ぐに復旧するのが不思議でならなかったが、少し納得したかもしれない。

恵瓊が信長の全盛期に使僧として面会の後の報告に、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いた事はあまりにも有名である。信長の転落と同時に秀吉の躍進を予想しているのだが、この小説では、本能寺の変に際し秀吉の中国大返しを可能ならしめたのは恵瓊自身の演出としている。

当時各大名にはそれぞれの使僧が居て、他にも殺された事で有名な僧が何人か居る。流石に大名に迄なったのは彼だけかもしれないが、広田弘毅が大戦開戦時に外務大臣であったために絞首刑になったのとは少し違うようだ。

0 件のコメント: