2010年5月10日月曜日

上海万博

連休の初めに上海万博がオープンして、押すな押すなの大盛況と報じられていた。ところが昨日のニュースでは早くも閑古鳥が鳴いているようだ。そもそも万博なるイベントを見に行く人の気持ちが分からないので、上海で閑古鳥が鳴いても不思議には思わない。40年前の大阪万博に延べ7千万人の入場者がいた事の方がよほど不思議だ。発展途上にある国の人は先進国の文物を知る事にやはり強い欲求があるのだろう。

世の中で知らない事と不思議に思う事は山ほどあるが、中国と中国人については分からない事だらけだ。特に「人」については、中国人と一括りにしてはいけないような気がしないでもない。偶々昨日「日本辺境論」なる日本人論について書かれた本を読んだので思うのだが、日本人とかアメリカ人とか韓国人とかドイツ人とかはなんとなく○○人としての共通項を抽出できそうに思う。しかし中国人についての共通項を見出すのは難しいのではなかろうか?

国民に経済格差があるとか、戸籍に種類があるからとかいった問題だけではなくて、「自分は中国人だ」と思っている人間がどのくらいいるかと感じる事があるからだ。ひょっとすれば小生も日本人である前に「自分は信州人だ」と思っている人間かもしれない。これは世界共通でアメリカでもアパッチ族はアパッチエリアを強く意識するだろうし、香港人は香港を強く意識しているだろう。中国は広大だからその傾向は一層強く、チベットの人に国籍を問えば「俺はチベットの人間だ」と答えるかもしれない。

言葉も日本の方言なんかと全く違っている。嘗て中国東北部の黒竜江省の人と南西部の雲南省に旅行した事があるが、中国人同士の会話が全く通じないのを知って驚いた事がある。兎に角ローカル性が豊かな国である事は誰も否定しないだろうし、自分もそのように理解すればいいのだが、どうもそれだけでは釈然としない。

我々は身を置くと言うか治める順番に「修身・斉家・治国・平天下」を中国から習っているが、国の上位概念に天下を持ってくるだけあって中国人は我々と少し異なる世界観があるようだ。良く言えばコスモポリタンであり悪く言えば個人主義が徹底しているように思う。従って昔から世界を股にかけて活躍した華僑のように、出身地や母国とは全く隔絶した社会で生き抜く事が出来る人を輩出しているのだろう。経済的に力を付けた階層が出現している今日、当然ながら我が国も彼らの経済的侵略を相当に受けているようだ。

10数年前までは住居と食料は普く国民に平等に分配され、税金も無いような共産党支配の国が、いつの間にか日本人からすると信じられないような富裕層が日本の人口とほぼ同じオーダーで出現している、と言われている。人口の1割が富裕層で残り9割の構成については知る由も無い。かなりの貧民層が存在するらしいが、中間層の存在があるのか無いのか?万博開幕当初の報道を見て、結構中間層が増えてきているのかなと思ったが、閑古鳥の報道に接すると「果たして?」と改めて疑問が湧いてくる。

現在でも政治体制は同じ共産党の1党支配である。どんなマジックがあったのだろうか?北京や上海は行きたいとは思わないが、黄河流域や揚子江流域の遺跡は機会があれば行ってみたくもある。

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