このところ毎日のように袴を付けた和服姿の女性を見る。卒業式のシーズンだ。小生、高校時代から少しぐれていたので、高校と大学については卒業式を欠席している。従って小中学校のそれしか思い出がないが、今思えば「卒業式」は甘酸っぱい感傷が漂って良いものだ。高校の卒業式に出席しなかったのは、確か先生の方からも「無理して出席しなくても良い」と言われ、これ幸いとスキーに行っていたような気がする。大学の時は式当日会場の講堂迄足を運んだのだが、悪友と出会って式場に入らずに一緒に映画でも見に行ったのかマージャン屋にでも行ったのだろうか。何れにしても残念だが後悔先に立たずだ。
中学の卒業式で言えば今迄の友人の多くと別れの日であり、なんとなく物悲しく思ったことを今でも記憶している。しかし小学校や中学校の卒業式で校長先生から何度も聞かされた「卒業式は旅立ちの日でもある。」 卒業と同時にわが胸には少しの不安と大きな期待が湧いたのも事実だったかもしれない。そしてこの作用で当日の感動か感激となり、今日の記憶に繋がっている筈だ。孫が今年小学校を卒業するが、どんな卒業式だったか後で聞いてみたい。
社会のある集団から個人として離れてゆくのが「卒業」という事にすると、中学を卒業してから高校、大学、会社を4回、合計すると6回の卒業を重ねて現在に至っている。卒業の時の不安感と期待感は、大人になっても存在していた。小生の経験に於いては「安堵感」を感じた卒業はこれまでに未だ存在していない。
今回、この3月で7回目の「卒業」を迎える事になる。今回は組織から離れるのではないので「卒業」とは言い難いかもしれない。一応代表を若い人の譲り、小生は取締役のまま相談役にでもなって安堵したいのだ。従ってセレモニーは一切無い、送る言葉も送別会も胸膨れる将来への期待感も無い。その代わりに、これ迄少しずつ小さくなりつつあるものの、いつも多少は感じた「今後に対する不安感」は無くなったようだ。
代わりに、後を引き受けてくれた青年に対する「責任みたい感じ」をどの程度に抑えようかと、思案しているとろなので、「安堵」を覚えるには至っていない。 爺になって感動も無い上に安堵も覚えずでは寂しい限りではないか。若い時から映画などで「黄昏」の美学に思いを馳せてはきたが、現実自分の黄昏に遭遇すると、何か薄っ暗くて周囲が段々見えなくなってくる。否、視野が段々狭くなってきていつ転ぶかと別の不安がでてくるのかもしれない。
山の黄昏は遠くの山脈が実に美しく見える、しかし足元が見えなくなってくるのも事実。人生も似たようなものだな。
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