先週から昨日までは寒明け10日の名に恥じない厳しい寒さだった。ところが今日は何と昼間の気温が20度を超えたみたいで、久し振りコートを脱いで池袋までの散歩を楽しんだ。枯れ木の桜も小さなつぼみを付けている。明日はまた寒くなるようだ。自然の巡り合わせは摩可不思議なもので人知を以ては如何ともなしがたい。
閑話休題
幼い頃から何かにつけ「己を知る事はとても大切」と教わってきた。しかし己を知る事は簡単なようでとても難しく、いつも分不相応な事を考えて失敗を重ねてきた人生でもある。本日偶々、明日には3月号が発売される文芸春秋2月号を読んでいると素晴らしい文章に巡り合った。執筆者は「分子生物学」と言う高度な学問をしている人のようだ。はじめて知る名前でもあり、彼が学者として如何ほどの評価を受けているかは知る由もない。だがここに引用した文章はいたく共感するものがある。いつかも書いたが、医者とか生物学者には科学をやみくもに発展させて人間が傲慢になることを警戒する人が多い。同じ号で科学者とは言えない文学部出身の立花隆がスーパーコンピューターの発展で癌克服も夢物語ではないようなこと言っている。
現在でさえ平均寿命が延び(過ぎ)ていろんな問題が顕在化しているのに、これ以上無理な操作で人体をいじってガリバー物語の老人国を出現させてどうするんだろう。以下は感動した部分をそっくり引用するので是非ご一読願いたい。
以下は文芸春秋2月号から引用 『ファーブルに学ぶエコライフ』福岡伸一
昆虫たちはかたくなまでに自らの食べるべきものを限定している。棲む場所も、活動する時間帯も、交信する周波数も。彼らは自分たちが排せつしたものの行方を知っている。彼らは自らの死に場所と死に方も知っている。誰にどのように食われるかと言う事でさえも。なぜか。それは、限りある資源をめぐって異なる異種同士が無益な争いを避けるために、生態系が作り出した動的な平衡だから。そして、その流れを作っているのは他ならぬ個々の生命体の活動そのものだから。彼らは確実にバトンを受け、確実にバトンを手渡す。黙々とそれを繰り返し、ただそれに従う。
これを生物学用語で「ニッチ」と呼ぶ。ニッチとは本来的に隙間の意味ではない。すべての生物が守っている自分のためのわずかな窪み=生物学的地位のことだ。窪みは同時にバトンタッチの場所でもあり、流れの結節点となって、物質とエネルギーと情報の循環、即ち生態系全体の動的平衡を担保している。敢えて今、ニッチを「分際」と訳そう。全ての生物は本能の、もっとも高度な現れ方として自らの分際を守っている。ただヒトだけが、自然を分断し、あるいは見下ろす事によって分際を忘れ、分際を逸脱している。私たち人間だけが他の生物のニッチに土足で上がりこみ、連鎖と平衡をかく乱している。
ヒトは何が自分の分際であるかを忘れさっている。しかし他の生物のありようを見れば、分際とは何かがわかる。長い時間をかけて生み出されたバランスのことである。ほんの少しだけ昔のことを思い起こしてみればよい。たとえば江戸時代、私たちはずっと風土に根ざした暮らしを送っていた。歴史は再発見されるべき未来である。旬のものを食べる。地産地消を考える。薬物や添加物など自らの平衡を乱すものを避ける。時間の経過に抗わない。流れをとどめない。足りているものをそれ以上取らない。
0 件のコメント:
コメントを投稿