2010年1月20日水曜日

墓に衣は着せられず

1940年の生まれで5人兄弟の3番目、小学校に入学する前は、親父が外地に出征していてどんな姿かたちであったか殆ど記憶にない。小学校に上がる年の冬1月か2月の寒い頃突然帰ってきた。ある朝目が覚めると隣に祖母がいて「隣の部屋にお父さんが帰っているからご挨拶をしなさい。」と言われた。襖をそっと開けて薄暗い部屋に首を突っ込んで「お父さん」と呼びかけると、顔は見えなかったが布団の中から「おぉ○○か、元気にしていたか?」と返事が返ってきた。私は「お帰りなさい。」だけ言ってすぐ襖を閉めてしまったように記憶している。

現在の常識で考えれば、5年ぶりで父は家族と再会したのだから家族をあげて盛大な祝宴となるべきだが、私の記憶に大した祝宴は残っていない、多分当時一般家庭に酒なんかはなかったのかもしれない。ただこの当日であったか数日後であったかははっきりしないが次の光景が記憶に焼きつき、それが父の第一印象となっている。当時我が家でも卵の供給源として鶏を数羽飼っていた。そのうちの一羽をご馳走にしようと言う事だったのだろう。父が鶏小屋に入って一羽の首を抑えててを掴みだし、こいつの首を薪割台に据えて片手に持った手斧で叩き落とした。

首は落ちたのだが片方の手が緩んだのだろう、首のない鶏が庭を走りだしたので、父があわててこれを追いかける様が可笑しくてしょうがなかったのを覚えている。父は謹厳実直そのものみたい顔していたので、慌てた顔が子供心に愉快であった。死んだ鶏は少し離れた処にあった今で言えば肉屋さんかな、に持って行って熱湯に浸してから羽を剥いてもらって持ち帰り、母と祖母がさばいて料理をしてくれた。確か野菜と一緒に煮たような料理だったと思う。それまで肉なんぞ食った事がなかったので、凄く旨かった。特に内臓に入っている卵の黄身の小さいのが印象的だった。

1948年冬、信州松代の光景が何となく甦ってくる。山に囲まれた盆地の端っこ、山の中腹からは炭焼きの煙が何本も立ち上っている。庭先の泉水、縁側の横には鶏小屋、さらにその先には畑が拡がり、黒い土の上に葱や少し芽が出た麦の青さが目にしみる。これだけ書けば風流なものだ。しかし鶏小屋の隣は人間様の手洗い所。外側には当然汲み取り口があって、母が長柄杓で糞尿を汲み出して畑に撒いていた。畑は我々子供の遊び場でもあったし、もう少し春が近くなると麦踏なんかをさせられたものだ。そして時として畑に入れたばかりの糞尿の中に足を突っ込んだりして・・・・。

日記に書くほどの事がなくなるとこんなくだらない事ばかりが思い出される。別のサイトで数年前から日記を読んでいる人はきっと「また同じことを書いている」と思われた事だろう。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

懐かしいお話しに思わず感動しました。本当は伯父さまが帰っていらした時のことは記憶していないのですが、祖母からも伯母さまからも聞いていたので、自分の目でみていたかのように
憶えています。バケツかなにかに食料を持っていらしたとか、
自分で縫った洋服を着て帰っていらしたとか、あの松代の家と
共に本当に無事帰国された伯父さまを家族はどんなにか、感激のまなざしで迎えたことでしょう。でも鶏の話しはおかしいわね。伯父さまの困ったお顔を想像しました。

tak さんのコメント...

realかつ感動的です。
私は亡父がフィリピンから帰って来たときのことをよく覚えていませんが、母によると着ていた軍服などを「これで苦労した!」と悔しそうに叫んで脱ぎ捨てたとのこと。
戦場で軍医としておびただしい死者を見てきた筈ですが、戦争のことはあまり話しませんでした。
人間あまり切ないことは話さないもの・・・とよく聞きます。

senkawa爺 さんのコメント...

匿名さん takさん

コメントをありがとうございます。

首のない鶏が池の周りを走り回ったのですから大騒動でした。

takさんの父上もつらすぎる経験でご家族にさえ話せなかったのでしょう。私の父も戦争の事はほとんど話をしませんでした。それだけに小泉政権下で自衛隊が簡単に海外に出た事について大変残念に思うのです。