2009年6月26日金曜日

新撰組顛末記●永倉新八

北海道松前藩江戸詰の上級武士の子として生まれた永倉新八、幼いころから武芸に優れ、8歳の頃より道場に通い18歳にして本目録を授かったとある。なお江戸市中の道場をを渡り歩いて剣術に打ち込むうちに、小石川小日向柳町に道場を構えた近藤勇に巡り合い、意気投合してその後の人生を共にする事になる。やがて名高い新撰組の幹部隊員となって、明治元年近藤勇が板橋で捕らえられ首をはねられる直前、甲州攻めに失敗した時に袂を分つことになる。

袂を分かったからと言って官軍に盾突いた彼の罪が消えたわけでもなく、相変わらず会津軍に加勢したりするのだが、人の運命は分からないもので結局大正年間まで生き延びる事になる。結局は脱藩した形になっていた松前藩に戻り、晩年は北海道の小樽で過ごしたようだ。この本は大正2年新八が小樽新聞社の取材に対して語りつくし連載されたものを纏めたものである。

新八も隠棲してからは家族にさえ新撰組在籍当時の事については殆ど何も語らなかったらしい。しかし明治も45年を過ぎ、自分自身も75歳になった時に考えを改めて記録を残す必要を感じたのだろう。その気持ちは分かるような気がする。

江戸末期と言えば江戸幕府は開国佐幕、西国が尊王攘夷を唱えて最初から対立していたように理解していたが、これもどうも間違っているらしい。志士と言われるような人は近藤勇ですら当初は尊王攘夷を唱えていたようだ。これが理念の主導者だった清川八郎と対立するあたりから佐幕一本に傾いていったようだ。西郷にしても仲が悪かった長州なんかより幕府側に接近していた時期がった事が良く分かる。

又、江戸時代の武士は軟弱とのイメージがあるが、幕末の志士と言われる人間達の乱暴ぶりがものすごい。自分の命も粗末にしているのだろうが、手段を選ばずテロを事も無げに実行する感覚。昨日の友は今日の敵できっと自分なんか知らない多くの有為の人が命を落としているのだろう。やはり日本における革命だったという事が少しわかった気がする。

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