世の中に分からないこと理解できないことが多々ある。分かっている人から見ればこちらが随分理解力不足、或いは馬鹿かとも思うだろうが、思われても仕方がない。例えば随分昔から世間で通用している<偏差値>もその1例。理解する気が無いのか能力が無いのかは別として、未だに理解できていない。我々の高校時代にはそれは無かった。自分の学力ランクは試験の度に教員室の前の廊下に張り出される科目毎の順位表。但し、これは約420人いた同期生の上位50番目くらい迄だったように思う。小生も1回か2回くらい英語で名前があったような気がするが、他の科目では全く出たことがない。
現在は偏差値なるもので、学校内なんて小さな世界でなくて、全国の同学年生対象で大凡のランク付けが可能らしい。便利と言えば便利らしいが、少し釈然としない意味もある。と言うのは、試験なんて水物、一発勝負なんてことも起こり得ると思っているからだ。試験の前日読んだ虎の巻に書いてあった問題が出た、なんて経験は小生以外にも多々あるのではないだろうか?小生には少なくとも大きな経験がある。しかも大学受験の時だ。試験科目が2科目しかない当時の慶應文学部の入試で山を張った英語の問題が出題されて偶然にも入学できた。当に天佑神助以外の何物も無い。
当時の受験科目は英語ともう1科目は選択で小生は世界史だった。しかも英語が200点満点、選択科目は100点満点。入学の通知を受け取って真っ先にしたことが願をかけた近くの里山にあった観音様へのお礼参りだったことを記憶している。観音様は遊び場にしていた裾花川のすぐ脇に立つ里山の旭山中腹洞窟に祀られていた。祖母が「旭山の観音様は生涯3回だけは願いを届けてくださるから。」と勧められてその気になっていた。
その観音様への細い山道には「大願成就」に名前が書かれた小さな幟旗(割り箸に半紙で作られたもの)が無数立てられていたのも事実。小生も本当は何かしなければと思いつつ、今日になってしまった。最近は観音様も山から降りて里のお堂に祀られておられるとのこと。迷信かも知れぬし、若い人が真に受けたら親御さんは困るかだろうが、嘘を書く気にはならない。理解が出来なくても信じたくなることもありうるのが世の中ではないだろうか。今のように受験指導が偏差値だけで行われていたら全く異なる人生だったと思うと、不思議な感覚に襲われる。
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