2021年10月24日日曜日

信濃の国

 高校同期生の友人が、グループメールで長野県の教育事情に関して、実に興味深い歴史的な資料を送ってくれた。長野県には「信濃の国」なる県歌があり、おそらく今でも殆どの県民はそれを歌うことが出来ると思う。詩の歴史を紐解くと次のように書かれている「明治32年(1899年)長野師範学校(現在の信州大学教育学部)の浅井洌先生が小学生向けに詞を作り、翌年同じ学校の音楽の北村季晴先生が作曲しました。」しかし長野県は広く、この歌ができた後、戦後にかけても何度も分県運動が起きた。

昭和23年に県会でその議論が起きた時、議会の何処からかこの歌の斉唱が起きて沙汰止みになったと伝えられている。よく出来た話だが、そのくらい長野県人は纏まりが無いとも言える。しかし歌そのものは昭和43年、県歌に制定された。現在でも長野県が教育県との評価がある一方で、県民の団結力の無さがあるのは事実だろう。

少し前書きが長くなったが、友人が送ってくれた資料からその理由の一端が伺えたような気がするので、今日はそのことで書きたい。

資料によると明治初年、日本は約300の藩が存在してたとのこと。これを政府が今で言うところの行政改革を実行して府藩県三治制をとることになった。この時長野県は14の藩と他に旗本領13ヶ所、諏訪大社や善光寺などの寺社領が4と合計18の行政区画になった。石高が信州全体で約80万石。ご承知のように長野県は南北が非常に長い、維新直後には、その4割が伊那地方に偏在して、行政簡素化のためにさいしょに「伊那県」が出現する。

それにやや遅れて北信も纏まり、「中野県」となって信州は2分された形で近代の行政組織が確立。時に事実上の長官として政府から派遣されたのが伊那県は旧薩摩藩士の永山盛輝、中野県は高石和道の二人。資料は南信中心に書かれているが、永山氏は小学校建設に力を注ぎ、政府から学制が発布された明治4年には既に28の小学校が、翌年明治5年には58校、6年には78校というスピードで進み、南信児童の識字率は急速に高まっていく。

もちろん、北信の中野県でも同様の努力はあっただろうと推測するが、南信中心の資料だったのではっきりは分からない。兎も角、現在では南信には新幹線も通らず、都会の文明から北信に比べて伝達速度に少しばかりの差があるように思われがちだが、維新直後は南のほうが産業も盛んで、文明快化も早かったようだ。南と北の県民には1世紀半前のコンプレックスと、現代のそれが複雑な影を落としてるのかも知れぬ。 

2 件のコメント:

村松 光 さんのコメント...

こんにちは。信濃の国のことを書いていらしたので、なんとなくうれしくてコメントを送ります。小さいころから祖母に歌わされて意味もわからず暗誦していました。付属小学校では校歌になっているのですか?
南北に長い県では分県運動も当たり前と思っていました。昔勤めていたころは
会議で南信からみえる方を毎回ご苦労だとつくづく思いました。
ちなみに私の勤務先は長野市にありました。
ところで、浅井冽という名前が正しいと思います。読み方は何でしょうか。
祖母は「アサイレツ」と言ってましたが、それは音読みでしょうね。

senkawa爺 さんのコメント...

村松光さん
いつもコメントを有り難うございます。
附属小学校も校歌は別にありました。これは多分他の小学校でも同じでしょう。
兎に角長野県は南北に長過ぎます。実感されていると思いますが、
飯田に行くより東京に出る方が早いのですからね。

浅井先生の名前を間違いまして済みません。<レツ>でも良いようですが、正しくは<きよし>ではないでしょうか。