2021年3月22日月曜日

今は昔

 今朝は購読しているメルマガで懐かしいことを思い出した。大学に入学して初めて東京に来た時、毎日利用していた山手線の新宿渋谷間の風景が次第に変わっていったことが思い出されたのだ。未だ昭和34年だから戦後の名残があちこちに残っていたが、山手線の代々木から原宿にかける外側、現在は明治神宮と代々木公園とNHKの関連施設で極めてスッキリしているが、当時はワシントンハイツと呼ばれたアメリカ軍関係の施設が立ち並び、日本人は近寄れなかった。

この風景が大学を卒業する昭和38年頃には一変して、オリンピック施設の建設が始まっていた。当時は一寸不思議に思った程度だったが、今朝読んだ元外務官僚の孫崎享氏メルマガ「一人の官僚の動きと1964年東京オリンピック時での米軍代々木施設(ワシントンハイツ)の返還」には次のように書かれている。当初オリンピック村は朝霞に建設の予定であったが、外務省の北米局安全保障課長が代々木の競技場で競技した選手が朝霞まで帰るのは大変だ。競技場の近くにオリンピック村を建設するにはワシントンハイツに朝霞へ移転してもらうのがベストと判断、そしてライシャワー大使に掛け合って了承を得ることが出来た。

ところが、国内でオリンピック担当の文部省が既定事実だからと了解しない(この辺は昔も今も変わらないなぁ)。この課長は諦めずに官房副長官に相談、副長官は当時のルールを破って、この事案を次官会議に掛けずに一気に閣議に提案して、事情を知らずにいた文部大臣の了解に漕ぎ着けたとのこと。

孫崎氏は、当時の北米局安全保障課長魚本氏がソ連大使の時代に部下で、氏が帰国する時大使から直接聞き、「外務省では課長というポストは重要だ。それで政策が作られていく。外務省は課長には好きなように仕事をさせてくれる。自分の信念に基づいて最後までやり抜け。」と激励されたとのこと。

そして次のような文章で締め括っている。

『かつて、霞が関の課長は自分たちが国益と思うことに邁進した。そして日本の政治機構はそれを是としたのである。それは外務省に限らない。多くの霞が関の官僚は生きがいを持って働いていた。「今は昔」のお話です。』

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