2018年12月15日土曜日

泉岳寺


愈々極月半ばの15日、高知沖のアメリカ空軍の訓練ではないが、本所吉良邸外に夜半轟く山鹿流の陣太鼓、東門と西門から一斉に押し入ったるは表に大石内蔵助を筆頭に大高源五など、裏は堀部安兵衛、不破数右衛門など総勢47名旧浅野家の浪士の面々、迎え撃ったるはこれまた腕に覚えの小林平八郎、清水一学をはじめとする上杉家中のお侍さん約40名だ、チャンチャンバラバラ血沸き肉躍る大チャンバラの始まりだ。

子供の頃は宮本武蔵、荒木又右衛門、忠臣蔵が最も好きな三題話だったが、その史跡である吉良邸も泉岳寺も行ったことがない。今日は朝から天気が良いので運動がてら泉岳寺に行くことにした。吉良邸は最近両国方面に頻繁に行くので何時でも行けるだろうと後回しにする。アクセスを調べると地下鉄だと門前まで行ってしまうので、敢えて山手線の三田駅から歩いてみた。三田駅は大学時代3年も乗り降りした駅だが、駅の様子も周辺の状況もすっかり変わっていたが、懐かしさは感じることが出来た。

ところで泉岳寺に墓がある忠臣蔵四十七士であるが、義士祭は昨日だったそうだが今日も天気が良いので人出は結構あった。今考えれば、食い扶持を貰っていた会社を潰され、再就職を果たせず浪人を余儀なくされた者たちが、倒産の原因となった一人の年寄りを逆恨みして徒党を組み、深夜その自宅に押し入り首をはねて殺したのだから穏やかでない。現代っ子がどう考えるか分からないが、我々はそれ(仇討)を美談として刷り込まれて育った。江戸時代には庶民に対しては、大岡越前さまのように個人的な裁量になるがお上によるお裁きがあり、罰も様々であったようだ。

しかし武士に対してはそれが無かったらしい。否、無かったと言うと語弊がある。武士に対する罰は種類が非常に少ない。上司の命令で閉門とか蟄居は聞いたことがあるが、武士の間違いは基本的に自分で断罪して死もって贖うとされていたようだ。間違いを犯すことがない人生なんか常識では考えられないから、とんでもない職業とも言える。本堂にお参りの後、四十七士の墓の一画に行って一束100円の線香を買ってそれぞれの墓に線香をあげてきた。墓の横に木札があり誰の墓か分かるようになっている。

一番若いのが大石主税の享年16歳で年寄りは83歳の人がいた。これらの人がチャンバラに加わったとは思えないが、切腹したことだけははっきりしている。我が国は不思議な国か普通の国か、外国人もいたがどう思っただろうか?

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