2017年5月31日水曜日

21世紀

ここ数日読みかけている本に、18世紀のヨーロッパ近代史と19世紀の日本近代史に大分類似が見られるような記述があったので、ふと思った。100年ごとに世紀末が来るのが当たり前かもしれぬが、ひょっとすると、そのサイクルにも異変が生じてはいないか?

古来100年をもって1世紀と言って、世紀をまたぐと世の中も劇的に変わって当然とされてきたようだ。人生の大部分を20世紀の中で過ごしてきたので、嘗て遥か向こうに見えていた21世紀に生きている今を思うと、時々20世紀が懐かしくなる。どこがどう変わっているかを具体的には指摘できないが、先日のイタリア・サミットを思い出すと、世界が大きく変わりつつあることを認識しなければいけないと思ってしまう。

山登りに例えれば、21世紀岳を登り始めて既に2合目に立っているのだから当たり前かもしれぬ。4合目までお付き合いできれば、こちらは100歳に達する勘定だから、そこまではとてもお付き合いは出来ぬだろう。どこまで登るかは別として、20世紀岳は嘗て頂上を極めた山であり、21世紀岳は現在登っている山として考えてみた。山の姿が全く違って見えてくる。大きさの違い、高さの違いは言うに及ばずである。

人生は常に地図を持たずに山歩きしているようなものかもしれぬ。時に立どまり、来し方行く末を見たり考えるのも無駄ではあるまい。20世紀岳は奥多摩の中程度難度の山だったとすれば、今歩いている山は、頼みもしないのに無理やり富士山か北アルプスの山に連れて来られたような気がしないでもない。

身に着けた知識が山登りの装備に対応すると考えれば、極めて不完全であることは認識せざるを得ない。思えば20世紀は環境が良すぎたのかもしれぬ。遭難事故など起こさぬ前に、無理をせず腰でも下ろして休憩するか、下山することにしてフェイドアウトすべきかもしれぬ。

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