読後感「外交官の一生」石射猪太郎 著

嘗て外務省東亜局長を務め、戦争拡大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる外交官31年の回顧録。1887年福島県生まれ。福島中学(現福島県立福島高等学校)を経て、1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父から生活援助を受けながら外交官及領事官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格。1915年(大正4年)外務省入省、任地は天津など中国から始まり、次いでサンフランシスコ、ワシントンのアメリカ、メキシコ、本省、イギリスを経て中国吉林省で総領事になり、続いて上海総領事を拝命するのが1932年(昭和7年)である。

続いて半年間のシャム公使を務めたのち1937年(昭和12年)東亜局長に就任して外務省の幹部になるが、時恰も盧溝橋事件が勃発して日中全面戦争に突入する年であった。以後世界史的に見れば、日本は世界大戦当事者として真っ逆さまに地獄の底に落ちていくことになるが、著者はオランダ大使を経てブラジル大使の時に日米が開戦、いったん本省に呼び戻されたりするが、終戦末期になって敗色が決定的になっているビルマ大使を命ぜられ、一旦逡巡するも著者の官吏道精神からして断り切れず、ここで終戦を迎え、軍と共に逃避行、結局はイギリス軍に確保されて抑留生活の後、敗戦翌年の7月日本に帰還。8月に免官となる。以上が簡単な略歴

日露戦争勝利直後に誕生し、小国日本が世界の列強に肩を並べつつあるときに成人となり、他国(中国)に進出する目的をもって上海に作られた日本の大学(?)を卒業して外交官となり、国策を背負い外国との折衝の第1戦での活躍。終戦で退官だから日本近代史の申し子的な存在ともいえるだろう。

まさに我が父母の時代で、小生誕生直前の近現代史に関わることではあるので、何となく聞いたことがある事件や人物が多く登場してくる。父母からも教えてもらえなかった史実を、現場に身を置いた当事者の記録として読むことができたのは幸いだった。戦後日本に帰還してすぐに公職追放になり、その暇に手元に残った資料をベースに書き上げたもので、追放解除の目的もあってとも言われているようだが、読む側にとっては貴重な資料であることに間違いない。日本は敗戦と同時に軍部では勿論だが、外務省を含む各官庁が貴重な文書を焼却処分したりしている。現在も同様だが、そもそも歴史に対する責任感の薄い国民と言われても仕方がない。

著者は同文書院の出身で、しかもサラリーマンを挫折してからの外交官であるので、当時としても異色だったのだろう。冒頭に「山男の宮仕え」の1節があり、はなから出世主義には縁遠かったと思える。新橋芸者から2度と来ないでくれと言われたくだりが愉快だ。19章に亘る長文ではあるが最終章に「末尾3題」著者自身が正統外交への思いを締めくくっている。省略しながら以下に引用したい。

「軍国主義の悪夢から覚めた今日、誰しも、在りし日の幣原外交を顧みて、そのとった国際協調主義、平和主義、対華善隣主義政策を礼賛する。死んだ子の歳を数えるようであるが、これは何も幣原氏の創作ではなく、その以前から日本の外交政策として存在はしていた。ただ幣原氏が信念に徹して内外の圧迫に屈しなかった勇気ことが特筆に値する。私は外交に哲学めいた理念などないと思っている。いわば商売と同じで国の利益を最大に、損失を最小に抑えることを心掛けるしかありえない。しかし商売にも信用が大事でこれを無視して、己だけ儲ければいいと言う姿勢で外国から信用されるはずはないだろう。

幣原外交以降の外交は正統外交の理想は温存しながらも、全く自主的性格を喪失した。軍人と右翼が霞が関外交を手ぬるしとして表面に踊りだした。店を預かる外交機関の商売ぶりがきにいらぬとして、用心棒の権助が奥から飛び出して、この値段で買わねば「目にもの見せるぞ」と客を脅したようなものだ。そして政党や国民はこうした強硬外交を喝采した。国民は常に、無反省に猛き者と共にあった。」70年前の記述であり、今日は同様でないことを祈りたい。

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