2016年12月14日水曜日

「忠臣蔵」考

元禄15年を西暦で言えば1702年とのこと、但し極月半ばの14日は当時使用されていた新暦では翌1703年1月30日らしいので余計分かりにくい。どうでもいいが、積もった雪を踏みしめて吉良上野介殿の御首を先頭に泉岳寺目指して粛々と・・・なんて言われても余計ピンとこない。昔は寒かったのだろうが300年以上も経てば気候が変わるのはやむを得ない。それでも今年は寒い方だ。

毎年のように書いているようにも思うが、就職先の社長が短気で得意先の重役を傷を負わせて死刑(切腹)となる。当然その会社は倒産して社員は浪人とならざるを得ない。そのことを根に持った旧社員有志が、傷を負わせた相手の私邸に乗り込み命を奪う。結局この社員有志一同も殺人罪で死刑(切腹)になるが、これを「仇討ち」と称してマスコミが美談と持て囃す。現代風にこじつけ解釈すれば、上記のようにもなりうるそうだ。

会社に例えてはいるが、実際は会社ではなくて国家であり、短気を起こしたのは国家元首である。得意先重役は連邦政府の高官である。当時の日本は合衆国であったが、300年前とは国家の統治形態が大きく変わっているので、企業に例えた方が分かりやすいと考えたのだろう。「忠臣蔵」は文学的には日本の代表的文化で、我々の世代にはには何の違和感もない。そもそも日本では古くから滅び去ったものと、人の死を美化する文学が多かった。外国人や若い人には分かりにくいかもしれぬ。

しかし、現代において国家が滅びるとはどんな状況を言うのだろうか?中東やアフリカの人たちには切実な問題だろうが、日本人にはイメージしにくい問題でもある。少なくとも昭和20年ポツダム宣言を受諾した時、国家が滅びたと実感できた日本人はどのくらいいたのだろうか?天皇制が続いている現代では皆無に等しいだろう。太平洋戦争終結から28年目にグアム島で発見された残留日本兵として知られる横井正一氏は「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」と語ったとされる。氏は「戦争に負けたのだから日本国は滅びた。しかし…」との意味で言った筈だ。

当時新聞記事を読んでも意味が理解できなかったが、最近になってやっと意味が分かるようになった。60年の歳月は長いようでも長い歴史から見れば短いのかもしれぬ。総理の近辺でウロチョロする似非保守か似非右翼の「日本会議」の連中とは別に真の忠臣が居れば、いつの日か新しい忠臣蔵が書かれる日が来るかもしれぬ。

*似非保守か似非右翼と書いた所以:彼らの思想が「国家の復興=戦前回帰」に偏していることを揶揄した。真の「日本=独立主権国家」はそんなものである筈がない。

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