2016年4月4日月曜日

読後感「規制の虜 」黒川 清 著

5年前の東北大震災によって引き起こされた東京電力福島第1発電所の大事故。この事故から9か月後の2011年12月に、この事故の根本原因を調査するために、国会に調査委員会が設置された。当時事故原因の調査する委員会は、このほかにも政府、東電、民間独立と3つの委員会が検証を行っている。また、国会にこの種の委員会が設置されたのも初めてのことだった。この国会事故調査委員会を設置させるべく孤軍奮闘したのが著者の黒川清氏である。

本書は311の大事故から5周年にあたる数日前の先月6日に出版された。前書きに著者の思いが要約されているので、冒頭部分をそっくり引用してみたい。『志が低く、責任感がない。自分たちの問題であるにもかかわらず、他人事のようなことばかり言う。普段は威張っているのに、困難に遭うとわが身可愛さからすぐ逃げる。これが日本の中枢にいる「リーダーたち」だ。政治、行政、銀行、大企業、大学、どこにいる「リーダー」も同じである。日本人は全体としては優れているが、大局観をもって「身を賭しても」という真のリーダーがいない。国民にとって、なんと不幸なことか。福島第1原子力発電所の事故から5年過ぎた今、私は、改めてこの思いを深くしている。』

本書を読み終わると著者の気持ちを十分理解することができる。そこで著者について少し触れたい。著者は学者と言えば学者だろうが、物理とか気象や地理の学者ではなく医師が本業の学者である。彼をこの行動に突き動かした主たる要因は彼の経歴にあると思う。彼は東大医学部の出身ではあるが、東大医学部で象牙の塔に籠ることなく、長年アメリカで修業を重ねてアメリカの医者として成功した後に帰国している。

しかし14年間のアメリカ滞在から最初の帰国に際して、アメリカの大学教授であったにもかかわらず、母校東大医学部の准教授にすらなれなかった経験までしている。80歳に近づいている現在では日本の日本学術会議会長も数期歴任したり内閣参与をしたりしているので、2011年当時は既に日本においても科学者としての評価は高かっただろう。

著者はこんな経歴なので、日本社会において世界標準からずれている点を身をもって体験している訳である。例えばよく言われる国民と立法府の関係、政府と立法府の関係等が、異常であることは予てから問題視していたに違いあるまい。特に国民に大きな影響を及ぼすであろう重大事については、アメリカでは政治色を抜きにした専門家即ち学者の意見を集約することが当たり前でも、日本では全く機能していないことについては大いに不満でもあったろう。

そこに起こったのが今回の原発大事故である。アメリカでこれだけの災害になれば、すぐにも議会に調査委員会が設置される。故に著者は大いに発奮して、日本の国会にもそんな調査委員会設置させるべく、一人で動き始める。様々の苦労の挙句、結果的には日本で初めての国会調査委員会は設置され、半年後には目論見通りの報告書を衆参両院議長並びに全国会議員宛てに提出はできた。その中には今後の原子力発電利用に関して重要な提言が7項目盛り込まれている。

しかし残念ながら、5年を経た今でもその提言は真剣に検討されることはなく、当然その後の原子力政策への影響を与えるに至っていない。そして昨年からは原発再稼働が始まっているのが現状である。この一連の経緯と著者の思いを綴ったのが本書と言える。書名の「規制の虜」とは規制する側が規制される側に取り込まれ、本来の役割を果たせなくなってしまうことを意味している。その結果、日本では原発にはシビアアクシデントは起こらないという虚構がまかり通る結果になっている。

アメリカでは考えられないことだのようだ。著者は原発関連のみならず、冒頭に引用したようにあらゆる場面で同様な現象が生じていることに警鐘を鳴らしている。普段あまり思い浮かばない視点なので参考になるところが多かった。

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