2016年4月1日金曜日

年寄りの我儘

カレンダーがまた1枚剥がされた。変化ある日々でもないのにか、はたまた何も変化がない故か、何れにせよ月日は凄いスピードで進んでいるようにも思われる。同時に思うのが社会からの疎外感。一応新聞テレビなどの報道は毎日チェックはしているが、内容に対する関心は日ごと薄れて「だからどうした」「どうでもいいじゃないか」と投げやりな気持ちが強まるばかりだ。

先日、高校同窓会の学年幹事会の席で、総会の際に講演を依頼する卒業生の人選があっていろんな意見が出た。配られた候補者リストには50人近い名前があって、それぞれ推薦根拠が簡単に記されている。流石に歴史ある長野高校だけに、それぞれ社会で立派に活躍されたり活躍している方である。実は我が年次からもそういう方を推薦していた。各年次の幹事は当然ながら同期生の推薦理由を述べたりする。

何故かその時、我が年次の立派な方について推薦の発言をしなかった。むしろずっと後輩で「古代・中世の古典籍の伝来と禁裏・公家文庫の研究」をしている学者の講演を聞くこと希望する意見を述べてしまった。約30名の出席者から賛同してくれる人は殆どいなかったので、多分実現の可能性は低いだろう。要するに、最近役に立ちそうな話を聞くことすら面倒なのだ。講演など聞いてもどうせすぐ忘れるだろうし、記憶に残ったにしても何かの役に立たせることなんぞとてもおぼつくまい。なればはなから何の役にも立ちそうにない話を面白げに聞いていた方が楽しいと思うだけである。

こんな意見は幹事としての見識に極めて欠けることかもしれない。その辺が同窓会の難しいところで、幹事団の諸氏も苦労されるところだろう。因みに会長10期後輩、運営に最も尽力されている幹事長は22期も後輩にあたるので苦労が思いやられる。察するに大多数の学年幹事も同窓会を活性化するために、できるだけ著名で個人的にも社会への影響力が大きい卒業生を引っ張り出したいはずで、それが自然でもある。

その思いで考えることすら面倒くさいとは、我がことながら困ったものである。言い訳代わりに余計なことを書く。1期先輩に元外務省高級官僚がいるが、この人は他人の意見を全く聞かない。そして話し出すとスタートと関係のないことまで延々と喋り続ける。同期の友人に小声で「彼少し呆けてきているのでは?」と問うと、元大蔵下級官僚の友人曰く「彼は呆けているわけではないよ。現役時代に閣下なんて呼ばれて、誰もが恐れ入っていた人間は皆ああいう風になってしまうのだよ。」

我儘は年寄りの常ではあるが、それもまた様々だ。

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