2015年1月16日金曜日

読後感「評伝 北一輝 Ⅱ-明治国体論に抗して」松本健一著

少し中途半端な読書のしかたである。「評伝 北一輝」は5巻までの大作であるが、たまたま昨年の暮れ、著者が亡くなる直前だったと思うが、書店にこの2巻だけ平積みされていたので読むことにした。著者は江戸末期からの思想家について、実に丁寧な取材に基づいた評伝をいくつか書いている。その代表的な著作が「評伝 佐久間象山」とこの「評伝 北一輝」であり、前者については読破したが、今回は根気が無くなっているので北一輝のあらましを知ることが出来ればと思い、書評などを読んでこの2巻目選んだ。

北一輝が昭和11年の226事件に於ける精神的指導者として反乱軍将校と同じように、準軍事法廷で死刑判決、即死刑執行でこの世を去ったことだけしか知らなったので、イメージ的には<天皇陛下万歳>を声高に叫ぶ国粋主義者だった。知らないと言うことは恐ろしいことで、226事件=現在は右翼の賛美対象というところからイメージが造成されてしまう。そもそも226事件の本質なんか何も分かっていないのである。多分、来月には分かったような顔して気勢を上げる右翼とされる皆さんも同じかもしれぬ。

明治16年に生まれて昭和12年に亡くなる北一輝の生涯のうち、本書では日露戦争終結の明治38年前後から同45年くらいまでの活動を中心に書かれている。年齢的には未だ20歳代から30歳代の初めにかけてことである。時代背景が現在と全く異なるとは言え、敢えて当時の彼の職業を上げれば「ジャーナリスト(新聞記者)」と言うべきである。

ここで敷衍しておきたいのは明治38年は丁度父が生まれた年で、明治45年は母の誕生年でもある。言いたいのは、そんな昔のことではないことである。当時はロシアと戦争するくらいだから、憲法も施行され国会も開設されて立派な陸海軍も存在していた筈である。中央集権体制が整いつつも、国民の生活は苦しかったことだろう。一方現在のような職業政治家、職業評論家はいなかっただろう。被選挙権を行使出来る人間は相当な資格が求められたであろうし、少なくとも政府高官になる人間は軍人にせよ、官僚や学者にせよ、現代のようにいい加減な人材が選ばれるなんてことが無かったに違いない。

ジャーナリストとなると一層ハードルが高くなる。無責任なことを喋り散らかして金になるなんてことは当時の思想家には想像できないことから、社会のため自分の主義心情を知らしめるために新聞を発行するに至ることが多かったようだ。当時のジャーナリストは本当に命懸けだったようだ。単に貧乏だけではない、国家の在りようについて反権力的な言辞を弄すれば発売禁止どころでは済まない。北も食べるためにいろんな新聞社で記者を務めたが、驚いたのは彼の思想の激しさと文才などに見られる才能の豊かさである。

北は佐渡の出身、若い時から俊才で、既に中学時代に人間の進歩とか平和について考え始めていたことが分かっている。その後東京に出て独学で英語を身に着けたり古今東西の書物に触れるにつれ、若干23歳にして千ページにおよぶ処女作『国体論及び純正社会主義』を刊行する。ここで彼は個人と国家の関係について、天皇も一般個人同様に国家に対してある種の責任があり、天皇が最高機関なんてことはあり得ない。明治国家が絶対的権力者として天皇を据えたのは間違っている。と当時の日本国の有様と大日本帝国憲法における天皇制を、非常に緻密な論理構成を以て激しく批判した。

500部印刷した自家出版の著作を、当時著名な学者や学校に贈呈すると、たちまち各方面から絶賛される。だがしかし、親戚中から借金しまくって発行に漕ぎつけたこの本は、1週間を待たずに直ちに発売禁止処分ととなり、北はすぐに「要注意人物」として警察の監視対象となる。この時彼は既に病魔にも侵されているが、思いや如何だ。しかし彼は一貫して社会民主義国家建設を目指し、最終的には再び革命を起こさざるを得ないとの思いを強めていくことになる。これがひいては宮崎滔天と繋がり、孫文たちの中国清朝打倒運動への協力に発展したりしていく。更には中国から帰国後は幸徳秋水とも深く交わったが、明治43年の大逆事件(秋水は首謀者として死刑)では運よく逮捕を免れている。

内容が豊富なので書ききれないが、明治期における日本人思想家が如何に理想に燃えていたか、比較するに現代社会の政治家・ジャーナリスト志操、才能の薄さを歎じざるを得ない。本巻では有名な『日本改造法案大綱』にまで触れることはなかったが、この1冊を読むだけで、北がナショナリストであっても国粋主義者でなかったことがよく理解できた。

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