2014年11月13日木曜日

己の身の丈

毎朝最低でも10分以上はしみじみ自分の顔を見ているし、夕方風呂場では裸の前面だけは確認している。加えて朝晩20分くらいは身体を動かして節々の作動を確認しているので、自分のことはそれなりに分かっている心算だ。しかし考えてみると、自分のことが分かっている心算という思い込みはかなり危険かもしれない。それでも最近は、鏡に映った己の姿を見て、大分むさくるしいと思うようにはなった。

そんなことは当たり前だろうが、この「大分」とはなんだ。広告によく使われる「自社製品比」で、比較するものが無いから、勝手にそう思い込んでいるだけのことだ。自分ではそうは思わないのだが他人からすれば、もう大分前から小太り、ちんちくりん、禿げと3拍子揃った立派にむさくるしい小父さんだった可能性の方が大きそうだ。特に身長を含む体型については、数値的に理解はしていても標準以下との自覚が湧いてこない。

身の丈は簡単に測定できるが、五体満足なのだからどうしても人並みだと思いたいのだ。逆もまた真なりで、孫の一人が身長185㎝はありそうだが、彼自身は180㎝一寸としか返事をしない。身体に関するコンプレックスはお笑い草だが、脳みその働き具合になると少し深刻な問題にもなりかねない。己の社会常識や知的水準についても、少なくとも標準以下ではあるまいと思っているが、これもかなり怪しいものだ。

学生時代を過ぎて社会に出ると、年収とか貯蓄といったことは統計と比較すれば、社会のどこに位置するかは大凡想像がつくが、知的水準となると基準値や標準値がどこにもない。殆どの人は自分が最も標準的であるかどうかは別にしても、常識人だと思っているのではなかろうか。少なくとも小生は、社会常識をそんなに逸脱はしていないと思っている。しかし考えてみると、これもかなり危ない話で、他人様からご覧になると、非常識な振る舞いをご披露している可能性は少なくないだろう。

要するに自分のこと、己の身の丈を測ることはなかなか難しいものだ。昨日会った後輩の友人から教えられたことがある。「若いうちは仕方が無いにしても、一定の年齢に達したら己を知ることが一番大切ですよ。自分の能力とか分を弁えない人間を馬鹿と言うのでしょうね。」痛いところを突かれて「参ったなぁ」である。囲碁で負けるのは大概自己過信に起因することが多い。安倍総理も同じ伝で選挙に負けてくれれば嬉しいが、駅で見た夕刊紙のポスターには「野党大敗」と大書されていたのでがっかりである。

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