敗戦の月

2日に亘る原爆の日が過ぎるとやがてお盆、そしてあの敗戦の日がやってくる。このところ朝日新聞が数回に亘って掲載している韓国人慰安婦問題の歴史認識に関する議論が喧しい。毎朝でかでかと掲載されていることは気付いていたが、改めて読む気にもならなかったものだ。なんでも、朝日が真っ先にとうの昔に虚偽証言と整理がついている故人の証言を蒸し返して、強制連行があったとの記事を書いて、誤りに気付き慌てて訂正したようである。

このことが河野談話見直しを主張する人たちを勢いづかせ、反朝日新聞側に恰好の攻め口を与えているらしい。右翼政治家諸氏も一斉に朝日新聞に矛先を向けて、国民をミスリードする許し難い行為として、トップの国会喚問まで視野に入れるなんて燥いでいるようだ。強制連行があったのか無かったのか、70年の時空を遡って検証することにどれだけの意味があるのだろう?植民地を支配した宗主国と植民地であった2国間には、永遠に交わらない歴史認識があるのは当然であろう。避けるべきは囲碁の世界で最も慎むべきことされる「勝手読み」(相手の応手を自分の都合の良いように読んでしまうこと)である。

隣り合う新たな主権国家が、その難しい認識の差を乗り越えるべく、前世紀の末1993年に出された官房長官談話はそれなりの意味を持つものと、当時の政治家の大部分と日本人の多くは認識していたのではないか。それを逆手にとって賠償を要求してくる韓国もどうかと思うが、それをいなす努力をせず、悪戯に騒ぎを拡大する我が国のセンスの悪さも嘆かざるを得ない。国対国の構図で見れば、明らかに日本が侵略国家で韓国が被害者であることから、国際的同情がどちらに傾くかは自ずから明らかである。

数日前にも書いたばかりだが、国連側から見れば日本が敵国であることは誰も忘れることはできまい。日本国憲法もアメリカに押し付けられたと言うが、正確には国連がこれで敵国にタガを嵌めたものだろう。その意味では70年なんて時間はほんの一瞬に過ぎぬのではないか?最近の日本政府の言動から、「ごめんなさい、参りました。」と両手を上げて喋った舌の根も乾かぬうちに何を抜かすか、と思う国があっても不思議は無い。アジアには親日的な国と親日的な人間が多いとよく聞く。

否定はできない事実だろうが、先に述べた原則、即ち嘗ては侵略国と被侵略地、クラシックに言えば征服者と被征服者の関係からすれば、正反対の感情の存在も無視は出ぬだろう。そんな難しい外交的な問題はさて置き、8月15日が近付くにつけ思うのは、日本人の自国に対する歴史認識である。時々思いついたように小中学校の歴史教科書問題が浮上して裁判になったりするが、先の大戦一つとっても自国では何も総括されていない。先ほど図書館で偶然読んだ敗戦の1945年秋に発行された文藝春秋の随筆に書かれていた言葉が印象的である。

「敗戦の最大の原因は米英に対して戦争を始めたことにある。それ程庶民の暮らしは行き詰っていなかったのに。」とあった。庶民の生活感覚と政治家の受け止めとの間にかなりの差があるのは昔も今も同じことのようだ。これを更に支那事変、満州事変と遡れば一層その思いだろう。これが終戦直後の国民感情の平均値と言いかねるのかもしれぬが、同じ思いの人も少なくは無かったろう。今や政権の中枢部に「あの戦いは自存自衛のための已むを得ざる戦いであった」と公言を憚らぬ人間が多数になってきている。

アメリカべったりの総理閣下まで同じとは思いたくないが、ご自分のご祖父が国家国民に対して如何なる責任を負い、その結果が如何であったか、お盆休みに思いをして頂くのも無駄ではあるまい。

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