読後感「努力論」幸田露伴著

書店で偶然見つけた本である。小説家とばかり思っていた著者が、随筆めいたものも書くのかと再認識させられた。店頭で「初刊自序」に目を通して面白そうだと思った。項目が多岐にわたっているので、休み休みゆっくり読むことが出来そうだし、努力とは実に縁遠い人生であったので、せめてその意味だけでも知るのは悪くなかろうとの思いで読み始めた。

露伴先生、小説家の割には非常に生真面目な哲学者のようでもある。読み進んで先ず思ったのは、こりゃとても随筆ではなくて、マジで修身の教科書か哲学書のつもりで書かれたのかもしれぬ。全巻を通して著者の人生観、即ち、人は如何にして幸せな生涯を送ることができるかを説いている。最後の解説を「清貧の思想」で有名な中野孝次氏が執筆し、その中で「西洋に向かって発せられた東洋からの幸福論と言っていい」と表現している。

明治45年に出版されたものなので、難しい言葉と漢字が多いことには少し閉口しながら解らない部分は読み飛ばしてきたが、大凡のことは理解できる。余談ながら、日本語は高々100年ぐらいでどうしてこんなに変化するのだろう?英国では現代でもシェクスピアの原文をそのまま読む人も多いと聞くが、日本では明治後期のものでさえこんなに読みにくいのだから、江戸時代より前の文章なんかを読める人が少なくなるのは当たり前だ。

一例をあげよう。「遼豕の誹りを承知で・・・」との文章が何回か現われる。漢字「遼豕」の読みと意味が全く分からない。仕方なしに辞書を検索した(開いた訳ではありません)。時間が掛かりましたが、解りました。読みは「りょうし」意味は「これは珍しいものだと自分で思っ ているのに、他の人が見ると、少しも珍しくもなんともなくて恥をかくこと。」だそうです。露伴先生として、は知ったかぶりかもしれません、と謙遜気味に書いている訳だ。

「恥を遼豕に招く」とは小生のために用意されているような言葉かもしれぬ。本論から逸れてしまったが、結論は簡単である。実は昨日のブログで少し触れたことでもある。人生で「幸」なんてそう簡単に巡りあわせで来るものではないし、努力してさえ「不幸」に終わることだってある。幸せを他力にすがるのは論外であり、人間は目的を持って努力をすべきで、それが結果的には「幸」に結びつくことが多い。しかし、たまたま「幸」とか「福」に恵まれても、それに奢るとでも言うか、無駄に使うと碌なことにはならない。

むしろ他人に分けるとか、後のことを考えた方が身のためだよ。とごく当たり前のようなことから始まり、これも別に新しい考えではないと思うが、「気」の大切さ等を念入りに書いている。露伴先生も仰るが、人生気の持ちよう一つだろう。この読書では、内容よりも先に書いたような漢字の珍しさに加え、明治時代の人が漢籍は勿論、西欧の科学的新知識に至るまで、貪欲に知識を吸収していたことに驚嘆するばかりだった。




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