2014年2月2日日曜日

国語と言葉遣い

余りまともでない文章を書き散らしている自分のことは棚に上げさせて頂き、国語と言葉遣いについて書いてみたい。中国や韓国の人が漢字を忘れかけていることが話題になっている。日本も明治維新頃には英語を公用語にしようとか、表記については漢字や仮名文字を廃して全てローマ字表記にしようとの議論が大真面目であり、喧々諤々の議論の結果、日本語は残そうと言うことになったらしい。

その時、せめて漢字は少し制限しようではないかとの意見が大勢を占め、当座使って可とする漢字を千幾つ残したのが当用漢字と聞いている。外国のものにすぐ飛びつく如何にも日本人らしい話で面白い。これで今はやりのグローバリゼイションに遅れを取ったかどうか知らないが、日本人の端くれとして、先人の正しい判断に敬意を表したい。中国は言語は昔からのものを使っているのだろうが、表記は殆ど簡体字(古い表記を繁体字と言っている)の筈。韓国は同じく昔からの言語であろうが、表記は例のハングルで完全に表音文字らしい。

○と棒と三角の組み合わせが非常に合理的で、覚えやすいと聞いたことがある。
日本語をローマ字表記にしたようなものだろうか。日本は幸いなことに漢字が大分残っているので、文字列を眺めただけである程度意味が理解できる。富士山を藤山(何処かにこんな町だか駅があるらしい)と取り違える心配は先ず無いだろう。漢字を知らない外国人にとっては迷惑な話で、観光庁なる役所が道路標識の表記を再検討しているそうだ。富士山=Mt.Fujisanとするらしい。

ところが使い勝手のいい日本語にも問題点も確かにある。使い勝手が良すぎるからだろうが、俗語とは少し違う意味で、誰にでもやたらに言葉や文章らしきものが作ることが出来てしまう。反省を込めて言えば「お前のブログを読んでいるが、時々難しい言葉が出てくるので困る。もっと分かりやすく書けよ。」とのご指摘を頂いたことがある。浅知恵か馬鹿の一つ覚えで、頭に浮かんだ古い言葉を好んで使う悪い癖は仰る通りだ。

しかし、自ら新しい言葉を作り出して書くことはないよう心掛けているつもりである。若い人であれば、仲間内で新しい言葉を通用させるのは楽しみの一種だ。一定の教育を受けた大人は、世間に通用していない言語の使用を慎むのが当たり前だ。さもないと、「お里が知れる」と馬鹿にされても仕方がない。使い勝手がいいと書いたが、漢字と平仮名の併用で読み書きには便利だが、話し言葉になると、融通無碍なるが故に却って難しくなる。

その昔、竹下登首相の国会答弁が「言語明瞭にして意味不明」と褒めたのか貶したのか知らぬが揶揄された。このブログも出来るだけ話し言葉をもって書いているつもりなので、時々不安になる。例えば先に「作ることが出来てしまう。」と書いたが、「作られてしまう。」又はら抜きで「作れてしまう。」どちらが正しい日本語か自信が無いので、文章を変えた。てにをはも難しいし、真面目に考えるとブログなんか書いていられない。

婆さんに言わせると問題は内容だそうだ。幸いにも婆さんは亭主のブログなんか見たことは一度も無い。話で言えば、中身のある人はどんな話かたで話しても意味が通じるそうだ。それが例え日本語であろうと外国語であろうと(サッカーの本田選手の会見を見よだ)。小保方晴子さんは英語があまり得意ではないそうだが、日本語は素晴らしい。引き換え、安倍総理は英語が得意らしい。しかし「愚弄」したくはないが日本語の「積極的平和外交」意味を理解できる日本人は如何程かな。この人にだけは教育を論じてほしくない。

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