2014年2月11日火曜日

「建国記念日」お笑い提供です

昨年の建国記念日には丹沢の山に登っている。今朝出しなにふと思い出して、「今日も寒いな。去年は確か15日くらいに山に行った筈だ。俺が弱くなったのか今年は寒すぎるのか、とてもじゃないが当分山なんぞいく気になりそうにないな。」「あら、そう。去年はどこへ行ったの?」と会話をしてきたので、先ほどブログで確認すると11日に、丹沢山塊の塔ノ岳に行っている。山頂には雪が大分残っていたが、麓の登山口は春を思わせる麗らかな日であったのを改めて思い出した。やはり今年の寒明けはきつい。

ところで今日は「建国記念日」。休日気分ではいるが、プールに行くこともなく、何となく朝から弛んだ気分でいる。世界を見渡しても、こんないい加減な日を国を挙げて祝う国は無いだろう。伝説上の建国を祝う国があっても不思議は無いが、外国の建国記念日の曰く因縁を調べてみたい。先ずは我が国、ウィキペディアで調べてみると、紀元節が制定されたのは明治5年11月だから、日本が国家の形態を整えていない頃の話である。

明治政府が決めたとなっているが、明治憲法すら無く、まるで国家の態を成していない時期に、太政官布告第342号をもって定めたと記されている。休日の徒然に面白いことを発見した気分なので、読者の皆様にも楽しんで頂きたい。明治5年と言えば、未だ江戸時代の気分が色濃く残っていたのだろう。日本ではまだ太陽暦さえ採用されていなかったようだ。公家の一部と薩長土肥くらいか、西国外様の連中が、討幕の勢いに乗ってこれから国づくりをするのだから、そのスタートの日付を確定しようとのことだったらしい。

そこで決めたのが来年の元日、大陰暦で暮れも押し迫った11月のことだった。昔から政治家は格好をつけたがる。翌明治6年1月1日を神武天皇即位の日と定めた。ここから笑えてくるのだが、このすぐ後に同じ政府が、暦の使い勝手が悪いので太陽暦に統一することを決める。その結果、折角定めた紀元節が太陽暦の1月29日となってしまった。更に1月29日は、政府要人が暗殺したとも噂される孝明天皇の命日(28日)と前後してしまう。そういった不都合を修正するため、翌年明治6年太政官布告第344号で、新たに神武天皇即位日を定め直して2月11日を紀元節とした。となっている。

政府のご都合主義といい加減さは現在にも共通している。勿論この間には、干支を専門とする暦学者が動員されて検証も行われ、暦上神武天皇即位の日は太陽暦2月11日に間違いないとのお墨付きまで得ている。まるで、憲法解釈を変えるために学識者を集めたとされる内閣法制懇を彷彿させる。

明治5年、1869年の本邦人の殆どに国家意識があったとは思えない。国と言えば薩摩の人は薩摩、我が故郷で国を問えば松代程度のことだろう。当時は決める側も、お伽話を承知のすけだ。だから恰好がつきさすれば何でもいいし、誰に迷惑が掛かる訳ではない、日にちがいつなろうと人畜無害だから笑って済ませる。

しかし建国記念日と名前を変えてまで150年近くも後生大事に温存すると、笑って済ますわけにはいかないみたいだ。総理が国民に向けて「国家に誇りを持てだの先人の努力に感謝しろ」と言うのは結構だろうが、古希を過ぎてしみじみ思うのは、余りにも歴史(特に近代の)を知らな過ぎることである。いっそのこと日本の建国(神武天皇の即位)は2674年前の1月1日の旧に復した方がすっきりしないか。笑 (拍手でもして下さい)

2 件のコメント:

Don Koba さんのコメント...

寒いお蔭で、建国記念日の由来を知ることができました。2674年前の1月1日という案も面白いかも。仲間に2600年の記念した名前の人がいて、随分、昔の年号だと思っていたけど、せいぜいBC200年頃の出来事。われら卑弥呼女史にしても、ADの人物。最近の古代史研究では、BC3000年頃に、オリエントやシナ、中南米には既に、それなりの文明が誕生していたことが判明している。宮内庁が後生大事に発掘調査を秘匿している遺跡も随分と最近のものなので、お笑いの類と言えそう。もっと冷静に歴史を直視する視点が大事なのでしょうね。

senkawa爺 さんのコメント...

Don Kobaさん
コメントありがとうございます。
本当に今週のお天気は堪えますね。
我々の誕生年は紀元2600年でしたから「紀」、八紘一宇の「紘」の字を引いている人が多いですね。
仰る通り、オリエントやシナ、中南米の文明先進国から見れば、我が国は相当後進の発展途上国だったと思います。皮肉に考えると、文明はいづれ野蛮国に滅ぼされてしまうのか、と少し暗い気持にもなりかねません。