2013年11月12日火曜日

中学時代の恩師(Ⅱ)

もとより教育とは縁遠い人間なので、最近話題の教育問題については理解できないことが多い。いじめをなくす方法を偉い先生方が真剣に考えてくださっているようだが、偉い先生や元ヤンキーの兄ちゃん代議士が良いアイディアを出してくれるなら結構なことだ。ただ、愚考するのはいじめなんてことはそれこそ千差万別であろうから、どんな法律が出来ようと役所が学校にどんな通達を出そうと、それで防げるいじめなんてものは無いだろう。

いじめによる自殺事件が発生した時の学校側の言い訳は、いつも決まって「気が付かなかった」の一言に尽きる。酷い時には両親の方が心配になって教師側に相談している場合さえある。報道を見て、こんな時は教師は当てにならないから警察に相談した方が良いのではと思ったりしたが、ストーカー事件への対応なんか見ていると、その警察でさえどのように機能してくれるのか甚だ心もとない。

一昨日同窓会で中学校時代の恩師と再会してきただけに深く感じていることがある。現場の実態を知らずに言及しているのは承知なのでお許し願いたい。モンスターペアレンツが多いことにも関連してくるが、現代の義務教育現場では先生と児童のコミュニケーションが極めて薄い実態になっているのだろう。親が学校教育については一切先生にお任せします、と中々言い切れない背景は何だろう?先生の方も親から子供を預かったとは思っていないのかもしれない。

先生は子供の成長に関して、上手く言えないが、特別に切り出すことが出来る「何か」を伝授することだけを引き受けているつもり。だから全てと言われても困ります、という顔が思い浮かんでしまう。しかもその「何か」は民主主義の良いところかもしれぬが、生徒全員に等しく与えられるべきものらしい。それの受け止める生徒側には当然能力の個人差があるので、受け止める量に差が出ますのでご承知願いますが一般的になっているのではないか。

近年、学校は与える或いは授ける立場、生徒はそれを受け止める或いは頂く立場の授受の関係が明確になっていて、その役割に基づいて互いに努力するのが基本のようだ。これも当たり前だが、別に先生に罪がある訳ではない。政府がそうしろと言っているのだろうから仕方はあるまい。目標は授受の量で計られている。授受の関係は昔だって同じかもしれない。しかし少なくとも我が先生方はそれだけでなく、もう一つ大きな目標を持っていたと思う。

今になって気が付いたのだが、親に代わって生徒一人一人の性格を把握しながら、個人の性格に合う、個人が一番興味を持つことの発見に教育の重点を置いていたように感じてならない。そのためだったのだろう、先生方は我々とよく遊んでくれた。休み時間だけの話ではない、学校から帰っても担任の先生が宿直の日は夜遊びに行ったし、休みの日に学校行事とは別にプライベートで悪がきを集めて野山に遠足にも連れていいってもらった。

担任が理科の先生で、植物や昆虫に個人的にも趣味があったにしてもだ。もし音楽の先生であれば音楽の好きな子は自宅に押し寄せていただろう。

実は道徳教育を教科にすると聞いて、読み書きも満足に教えられない現場に更なる無理を強いる馬鹿な政府方針に異論を唱えようと思ったが、前書きだけになってしまった。

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