2012年7月5日木曜日

上杉鷹山、恩田木工に加えて

米沢藩の大名上杉鷹山と故郷信州松代藩の家老恩田木工は、藩の財政再建のために果断な行政改革をしたとして有名である。共に行政のトップに居て、行政改革断行のために率先垂範、自らに極めて厳しくして、藩全体の引き締めを図ったと承知している。現代の政治家も如何程の信念に基づくか知らぬが、口を開けば財政再建と唱えるものが多い。少しは先賢の知恵に学べと思っていた。

今日たまたま読んだ本に、上の二人に似たような人物の事が書いてあったので書いておきたい。名前は「津田出(いずる)」。上記二人よりずっと後の江戸末期から明治38年まで生きた人である。知らないのは小生だけかも知らないが、兎に角初めて知った。紀伊藩の藩士である。紀伊藩は徳川御三家のひとつ、明治維新の際は当然賊軍である。しかし明治新政府の元老大久保利通や西郷隆盛が、その人となりを絶賛していたようだ。

津田がこの二人と直接会ったのは明治4年のことらしい。特に西郷に対して津田は、郡県制の採用と徴兵制を薦め、強力な権限を付与した首相を定めて藩閥制度を超えた官僚支配の確立を説いたらしい。西郷は感激して、直ちに津田の言う改革を実行することと、津田を首相に登用する事を政府に建言したようだ。結局この建白は実現を見なかったので、あまり有名にならなかったのかもしれない。しかし彼の思想は明治政府にかなり採用されている。

明治維新から2年、紀伊藩は徳川方の官軍から過酷な取り立てのため、殆ど財政は破たん状態に陥ってしまう。幕末に一旦藩主の教育係にまでなった津田だが、複雑なお家事情が絡みこの時蟄居状態にあったが、明治2年再び命が下って、津田が財政再建に当たることになる。注目すべきはその策が徹底していること。

津田は先ず家中の全員を集めて、藩の勘定帳を公開、藩の財政が破たん状態にあることを全員に知らしめた。その上で、藩主の経費は20万石から1万石に、550石以上の藩士については一律1割支給等として、役職の無い藩士は今後農業でも商業でも兼業は構わないし、どこに住んでもよしとする。
勿論下士に至るまで細かなリストラ案があるが、トップの身の削り方は上杉、松代藩を凌駕するものだろう。

同時に政治の体制・組織も大きく変えていく。詳細は省くが、江戸時代からの家柄は一切無視して、各セクションとも能力主義に徹したらしい。特に注目されたのは軍政の改革で、江戸時代藩士に限られていた軍人を、百姓町民の男子に枠を広げて徴兵制度を実施。明治4年廃藩置県の時には政府軍以上の軍事力を持つに至っていたとのこと。これが西郷や大久保に認められた所以であろう。現代の高位高官には是非学んでほしい人物である。

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