2012年2月10日金曜日

読後感「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」石光真人編著

新書版で僅か160頁程のボリュームだから、字数は少ないが内容は実に濃い。もう一度じっくり読みなおしてから感想を書くべきとさえ思ったほどだ。編著者は明治37年の生まれ、父とほぼ同年齢である。編著者彼の父も陸軍の軍人で幼年学校入学前に既に任官していた柴氏の家に寄宿させてもらったことがあったらしい。

内容は大きく2部に分かれ、1部は柴五郎氏の遺書、2部が「柴五郎氏とその時代」として石光氏自身が書いている。1部は結果的に遺書とはなっているが、本人は遺書のつもりで書いていない。むしろ退役して隠棲の(言葉は悪いが)慰みに、自分の少年期を綴ったメモ書きが原本である。柴氏が亡くなる3年前に、亡父の縁で度々訪れていた石光氏に、「自分は少年時代十分に教育を受けていなので、日本語は不得意であるので校正してくれ。」と依頼する。柴氏の目的はこの書を一家の菩提寺に納め、先祖(主に祖母、母、姉)の供養とすることにあった。

依頼を受けた石光氏はその内容を読んで非常な衝撃を受ける。書かれていた内容は、明治維新に続いた戊辰戦争に巻き込まれて会津藩が没落していったわけだが、柴氏は明治元年が丁度10歳、若松城落城の前日、氏は両親の配慮であろう、騒然としてきた城内を後にして郊外の別荘に送られる。父が藩内の高級武士だったので、それまでは当然武士の子として薫陶を受け、きな臭さが迫っている事、武士としての覚悟が必要である事は幼心に既に心得ていたようだ。

落城の当日は、避難してくる城内の民衆に逆行して城内に駆け付けようとしたが結局間に合わず、数日後には祖母と母、姉が自害して果てた事を知らされる。結局逃亡生活が始まる訳だが、結局は捕虜となって江戸に送られる。後詳細はは書かぬが、戦争終結して藩が降伏後の実体験が物凄い。本人が乞食以下の生活と記しているほどだ。捕虜になったり、厳寒の荒れ地津軽に追放されての数年を経て、正に艱難辛苦の末陸軍幼年学校に入校を果たすまでの約5年の思い出が大部分。

勿論前後の江戸末期から西南の役で西郷が死に、大久保が暗殺される頃までは記述があるが、士官学校を経て陸軍の最高位に上って行く過程は何も書いていない。実際には日清日露戦争を通じて陸軍内部では支那通になっていったようだ。先の大戦が終わるまで生きたが、後輩が大陸で事変を起こし世界大戦に進んだときには、編著者に「この戦争に勝てる筈がない」と繰り返していたようだ。

抽象的に武士道を論じている訳ではないが、至る所に日本の武士の生き方、家庭の有りようが具体的に書かれている事に感銘したのが一つ。もう一点は毎度のことかもしれないが、歴史は常に勝者の側から書かれるので、必ずしも真実を伝えないなとの感慨。日本国の有よう、官僚の有りよう、天皇制等様々な事に想いが至る重い意味があった。


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