2012年1月17日火曜日

時の流れのままに

今日は17年前に阪神淡路大震災が起こった日だ。その頃自分が何をしていたのか全く記憶が無いので年金記録を調べてみた。4月に55歳になる年だから未だ現役、但し、盛りは過ぎてかなり疲れていたのだろう。3月に2度目に勤めた会社を退職している。2度目のお勤めは47歳からだから8年ほど勤めたことになるが、最初は前の会社勤めの7掛け程度のお給金だったが、この頃になると何故か、かなり高額にして頂いて有難かったことを思い出した。

1990年でバブルがはじけ、不毛だったか何とかの10年や20年が始まったと言われるが、少なくとも個人的には株などに手を出していなかったので、そんな実感はなかった。むしろ新人として入社したにも拘らず、程なく役員として厚遇を受けてさえいた。むしろ強烈に思ったのは若い人との認識の差、世の中が縦社会から違った形に変わっていくことだった。少し前に読んだガルブレイスの「不確実性の時代」を実感せざるを得なかった。

盛りを過ぎた年齢だったのに、生まれて初めて秋葉原の電気店に行ってワープロなる機械を買い込んでみたが、結局年賀状1枚作ることもできず、いつの間にかゴミになっていった。最初のトライは挫折してもこの目覚めが自助の精神を産み、現在にまで生きている事は間違いない。そんなことを思い出したので書いてしまったが、平成7年の今日の事だけは、はっきり記憶している。長野市郊外の飯縄スキー場に娘と二人で行っていた時だった。

当日は帰京予定日で、朝起きて宿のテレビをつけると神戸で火災発生のニュースが流れていた。地震そのものは殆ど感じなかったのではと思う。地震で火事とは大変な事だね、死者もいるのでは?と話し合った記憶がある。夕方東京に着くと、夕刊紙に死者800人と出ていたので、そんなに大変な騒ぎかとびっくり。娘も私もようやく関西にいる友達の事が心配になりだした。
娘は昭和62年迄、私はさらに1年後まで大阪に住んでいたので友人が沢山いた。

更にその翌日になると、事の真相がはっきりしだして、友人知人が相当な被害にあっている事が徐々に分かってきたのだった。昔の事はどんどん忘れてしまうので、覚えているのはこのくらいしかない。その娘がもう中学2年生の子を持つ母親になっているので、相当な歳月が流れている事だけは実感する。お母さんを亡くした神戸の友人、その後何回か顔を合わせているが、今頃どうしているだろう?「アパートに閉じ込められ大変な思いをした。」と後で語ってくれた大学の同級生は既にこの世にいない。

個人的にはそんな思いに浸った今日だった。

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