2011年5月19日木曜日

情報の集積と利用 日米の大差

原発事故に関する内閣や東電の情報の公開について兎角の批判が多い。昨日も整体に行った際にトレーナーが「当面は健康への影響はないと言われても困ります。なんで分かりやすい言い方が出来ないのでしょう。もっと国民を信用してほしいです。」と言ってこぼしていた。最も平均的な国民の気持ちでもあろうし、不満は良く分かる。そこで自分の経験からこんな話をしてきた。トレーナー氏の生まれた年の事らしい。1976年小生が初めてアメリカを訪れ、西海岸のスタンフォード・リサーチとか東海岸ではボストン・コンサルタント等のシンクタンク巡りをした時の事だ。この時は随分と初見聞に遭遇して、以来考えが大きく変わった。コンピュータ通信なるものに初めてお目に掛かったのもその一つで、へ~と思った事を未だに覚えている。

当時は未だインターネットの概念は出現していない。しかしこれらのシンクタンク組織では、テレックスに替ってコンピュータ通信も始まり、「情報の共有」概念が徹底し始めていた。見学してびっくりしたのは各オフィスにもたらされる情報の全てを、自分の端末にインプットすることが義務付けられていた事だ。それが例え広告DMであろうと来訪者の名刺であろう、自分のデスクで受け取った文書・郵便物は全てコンピュータにインプットし、アメリカとカナダだったか、全ての支局で検索が可能になるとの説明だった。当時は随分無駄な事をするものだと感じたが、今にして思うと彼の国では情報に対する概念が我が国と全く異なっていたと思う。(こちらは未だコンピュータなんてものは計算機のお化けと思っていたにすぎない)

彼らの考えでは、情報とは半ば自然に存在するものであり、作為的又は選択的に(例えば必要とか不必要とか)受け止めるべきものではなく、全ての情報は全て網羅的にに集積してどこかに格納すべきものとしたのだろう。どんな情報でもきっといつかは役に立つと考えている訳である。問題はその利用法で、その為に情報処理と検索機能の概念が発達した。勿論軍事戦略構築にはこれが不可欠の思想で、後のインターネットの出現に繋がったのだろう。今や我が国でもインターネットは存分に発達し、利用されているように一般的には思われているだろうが、実際はアメリカの利用法とは根本的に異なっているのではないだろうか。

我が国では一次情報二次情報なる考えが当たり前である。一次情報が生の情報で、二次情報は一次情報取得者によって加工された情報と理解する必要がある。一般的な情報は全て二次情報なのだ。内閣や官僚或いはマスコミの人間に聴いてみるとよく分かる。自分達が知っているのが一次情報、一般人が知る情報は全てセコハン情報と豪語する筈だ。「己がこれは知らしめたほうがいいと思う情報だけを知らしめる」世間は常にセコハン情報で充分なのだ。そして常に自分達がその二次情報を発信する力を持っていると己の力に酔ってしまい、そうこうするうちに生情報が何であったかさえ忘れてしまう。もともとオーソライズされている場所に集積されたものでは無いので、彼等が発表する情報の信憑性は端から確認のしようが無いのだ。

彼の国は全く違って、情報には一次も二次もない、何処までも生であるべきで、正しく或いは正確に保存されていなければいけない、が基本に置かれている。問題はそこへのアクセス権限で、映画小説で見る限りは、どんな組織でも職位などでかなり厳しい制限がかけられるようだ。従って報道機関の取材方法なんかは決定的に異なる。もし誰かに取材して、嘘をつかれたと思えば、一次情報の集積場所に自ら乗り込んで裏取りをするが当たり前の世界だ。日本では嘘だと思っても、同業のみんなが認めているのだから、取敢えず歩調を合わせるとなる。勿論アメリカでは一次情報は何処かに集積されている。日本は情報の集積概念が無いので、生情報が何処にあるかさえ分からない。

日本は政府にしても企業にしても全情報をコンピュータにインプット、まして共用のサーバに上げるなんて発想は先ず無い。組織内の全端末を回線で結ぶなんて事は毛頭考えていないし、情報のネット化なんてとんでもない話。住基ネットの騒ぎを思い出せば明かで、況や組織を超えて年金等の社会保障記録と税務関係の課税納税記録を統合なんてのも夢のまた夢みたい話になっている。我が国の現状では残念ではあるが、先ず情報を集積してからその利用法、アクセス方法を検討する事には絶対と言っていい程ならない。

ネット化は確かに危険が付き物だ。アクセス権限が無くても技術力があればハックすることも可能だし、意図的に情報を漏えいさせる可能性も無しとはしない。従って政府も大企業もインターネットなんか「便所の落書き」程度にしか考えていないかもしれない。しかし、食べ物は生食を好むのに情報の生もの<raw data>に鈍感だった日本人が、原発事故をきっかけに急に情報の生ものに飢えを感じはじめたようだ。

困った事には、先に述べたように我が国では生情報が分散管理の状態にあるので、必要な時に必要とする情報を、誰が何処で引き出せるかを正確に知る人間が一人もいない事だ。内閣官房や保安院、東電の広報が、ようやく知り得た乏しい情報の中からどれを選んで、どのように発表すべきか、悩んでいる姿を想像すると笑えてくる。嘗て松下幸之助がコンピュータなんか必要ないとして、関連事業からの撤退を表明した時以来、日本人の情報に対するメンタリティーは変わっていないと言う事だろう。インチキ情報に踊らされる危険と生情報が流出する危険、情報を出す側に居るか利用する側に居るかによっても異なるのも明らか。何れにせよ今後は情報の重要性について根本的に考える必要がある。

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