2011年3月23日水曜日

と信じたい

いつ頃からの事か記憶にないが、官房長官の記者会見に必ず手話通訳が付いている。そんな遠い昔からの事ではない筈だ。ラジオの時代であれば出来ないがテレビの時代なのだから、耳の不自由な方にとっては便利に違いない。たった今も枝野さんの会見を見ていると、通訳の方は枝野さんと同じ原稿を見えるところに置いている様子が無い。耳から入った言葉を反射的に通訳しているように見える。記者からの質問も通訳しているようである。

健常者で手話をこなす人は東京に何人いるのだろう?秋篠宮妃も手話をされるとの報道もあったが、結構な人数がいるのかもしれない。当然東北の被災地で不自由な生活を強いられている人の中にも手話通訳を必要とする人は沢山居られる事だろう。日本人は優しい民族だから、困難な状況の中で弱者を見捨てず協力し合っている事を信じたい。

いつも大災害の事が頭から離れないので話しが逸れた。手話通訳に関連して書こうと思ったのは、手話だけでなくて外国語との場合も同様であるが、同時通訳者とか速記者の頭の構造はどうなっているのか、不思議でならぬと言う事だ。何かを聞く、同時に頭の何処かでそれを別の何かに変換して、同時にそれを表現するために身体を動かす。人間の脳とか神経はウルトラスーパーコンピュータらしいので、操作方法を覚えれば何でもないのかもしれない。

兎に角羨ましい限りだ。学生時代から講義内容についてノートを取るのが凄く苦手だった。聞く事と書く事を同時にする事が出来ないのだ。いつも試験になって慌てていたものだ。ところで、人類の基本的な中央演算装置の処理能力は数千年前の人間も現代人も殆ど変わらないし、個人差も殆ど無いのではなかろうか。しかし個人の潜在的能力の引き出し方の違いで、小生から見ると神業とも思える能力を発揮する人が生まれる事になる。

そのような人たちのお陰で、我々凡人も快適な環境を享受する事が出来ている。原子力発電なんて凡人には想像も出来ない事を発明した人もいるのだから、それが原因で発生した事故くらい消す事を知る人が何処かにいるに違いない。


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