読後感「龍馬を超えた男 小松帯刀」原口泉著

これまであまり有名ではなかったが、一昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」の準主役で登場して一躍有名になったようだ。勿論小生もごく最近まで知らなかった。小生が知ったのは、民主党元幹事長の小沢一郎氏が記者会見か何かで、「明治維新の立役者の中で特に尊敬すべき人」として名を上げたからである。今ではすっかり有名になり、正に維新の立役者として評価を受けている坂本竜馬も、明治16年迄は全く無名の人であったらしい。

小説などの影響で、明治維新は西国下級武士の志士達によるクーデターと思われがちだが、そうではない事を教えてくれている。それはそうであろう、盤石の構えをもって250年の長きにわたった徳川幕府の行政統治機構を組み替える大技が、若干の流血があったにせよ1年や2年で達成できたのは、西郷をはじめとする数人の個人の力だけではあるまい。しかし、学校の歴史では教えないし、知識の吸収が小説等に頼らざる得ない現状ではどうしてもそのように錯覚してしまう。

本書はその認識の間違いを訂正するに非常に役に立った。維新を推進したのは江戸時代の藩で言えば薩摩と長州、この二藩が土佐の脱藩志士坂本竜馬の活躍で、薩長連合を結ぶ事によって成就する事が出来たと相場が決まっている。一見したところ結果からすればその通りなのだが、他藩の脱藩志士や殿様が名前も知らない下級武士(西郷隆盛)数人によって、石高で言えば何十万石、武士の人数でも数万人の藩組織が動く筈はない。指摘をされればその通りである。

特に、長州と薩摩では藩内の事情が全く異なっていた事が重要である。前者は明治維新前に既に藩内で一種のクーデターがあり、既に高杉晋作等によって下級武士がが実権を握り、百姓町民が参加する革命軍創設に迄進んでいた事情がある。一方薩摩は維新の最初から最後まで藩としての意思決定があり、それに基づいての行動であった。

主人公の小松帯刀は維新達成直後の明治3年35歳の若さで世を去るが、小なりと言えど九州の一領主の子として1835年に生まれ、ペリー来航の翌年には若くして島津斉彬の奥小姓として仕えて薫陶を得る。23歳の時斉彬が亡くなり久光の代になると、その才能と外交手腕を買われて側用人から家老にまで出世していく。本書は出世物語ではなく、明治維新前夜の動乱期に薩摩藩重役の小松が藩と日本国の行く末をどのように見据え、どのように動いたかを考証している。

一口に言えば国際化の波に洗われた時、薩摩のため、ひいては日本のため何をしたかである。坂本竜馬とは同じ年の生まれでもあり思想的にも相通じるところがあった事は事実のようだ。特に幕府の神戸海軍操練所が解散を余儀なくされた時に、勝海舟の依頼で生徒だった彼を薩摩屋敷に引き取ったりした事から特に親しかったようでもある。本書によるとこの二人が考えていた維新の筋書きは現実とは少し異なり、飽くまでも無血クーデターで、大政奉還まではほぼ筋書きに沿ったようだ。

残念ながら1867年(慶応3年)末、天皇、徳川慶喜双方から厚く信頼され、東奔西走した帯刀は大政奉還が無事なると、身体がぼろぼろになり、お役御免を申し出て薩摩に引っ込んでしまう。殆ど時を同じくして竜馬は暗殺されてしまう。

この直後1867年末から翌年正月にかけて勃発した鳥羽伏見の戦いを皮切りに1年ちょっと続いた戊辰戦争迄の血なまぐさい戦は、どうやら、彼ら二人の本意ではなかったようだ。竜馬の新政府人事構想は慶喜が政府の筆頭になっている。明治政府になってからも、新政府は外国との難しい交渉事に関して、帯刀の力を借りる事が多かったようだが、それも束の間明治3年には没する事になる。

彼の正式な名前は「小松帯刀清廉」。名前の通り誠に清廉で無私の人柄で、知行資産は勿論、名誉も死んだ後に名前を残す事すら望まなかったようだ。
現代の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたい。

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