2010年4月7日水曜日

読後感 『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介著

鹿島圭介なるノンフィクションライターの名前は初めて聞く。どうも一橋文也のように大手新聞に在籍記者の偽名のようだ。先月30日国松長官狙撃事件の時効を迎えるにあたって警視庁公安部長が異例の記者会見を開いた。派手に報道されたように、「犯人を挙げる事は出来なかったがオームの犯行に間違いない」である。全くど素人の小生が聞いても不思議な会見と思うくらいだから、非難が轟々と巻き起こった。

その週末本屋でこのタイトルが目にとまり早速読んでみた。過ぎ去った事件の一つで、犯人がオームであろうとなかろうと小生は全く関知する程の事ではないと思っていたのだが、これを読むと驚きの連続で、先の記者会見の持つ意味までがなんとなく見えてくる。

内容を要約すると、事件の真犯人は「中村泰」なる別人で、現在別の強盗殺人事件で岐阜刑務所に服役中である。筆者は中村と平成15年以来面会20回、書簡は80通に上る取材を重ねているとしている。当然警視庁当局も中村を重要被疑者と認定、何度も尋問を重ねて犯人と特定するに足る自供は引き出しているのだが、現状では検察から逮捕の許可が下りていない。許可が下りない理由は、狙撃に使用した拳銃が見つからない事、これが無理でも最低共犯者を確保しなければと言っているようだ。

中村は拳銃は大島行きの東海汽船から太平洋に投げ込んだとし、共犯の存在は認めているものの同志の仁義で絶対に言わないとしている。本書の発行日は3月20日で公安部長記者会見より前だが、時効日に記者会見がセットされる事さえ予告している。ここまで警視庁でも把握しながら逮捕に踏み切れないのは何故か。実は警察内部の縦割り組織の弊害のせいのようである。

即ち、当初この事件は刑事部がオーム事件で多忙を極めていたため、本来刑事部が担当すべき事件であったのを公安部に任せたのがボタンの掛け違い。刑事部と公安部では捜査手法に大きな違いがある。刑事部は予断を持たずに広範囲な操作で集めた証拠をベースに犯人に迫るのに対し、公安部は一定の推理に基づく捜査手法をとる事が多いようだ。それが不幸の始まりで、当時オームの問題が大きな社会問題になっていたので、オームに違いあるまいという先入観が捜査本部に醸し出されてしまった。

正に主人公中村の狙いにはまってしまった意味もある。ところが事件から数年経って刑事部の方から中村が真犯人ではという見方が出て、公安と刑事合同捜査本部が立ち上がった時期もあり、中村の方も相当観念して事実関係をかなり詳細に供述し出す。同時にマスコミにも一部この情報が流れたので、マスコミ関係者はここに書かれているような事について殆ど知っているらしい。

ところがである、歴代公安部長のメンツやらなにやら役人特有のいやらしい事情が絡んで警視庁としては長年に亘る捜査の失敗を認めたくないらしい。いかなる事情があるかは知らぬが検察までもそれに同調して、結局刑事部は外され元の公安部主導に戻されてしまう。ここまで来ると常人には理解しがたいのだが、セクショナリズムの権化の役人は勿論、それにぶら下がっているマスコミもおかしい。先月30日15年の時効宣言の際、この中村の存在について触れたメディアは1社も無い。

中村の供述に基づく内容は、発想の原点が分かりにくいが実に面白い。彼は1930年生まれで東大を中退、頭はすごく良くて機械いじりは幼い時からお手のもの。終戦直後は一時右翼の大物に弟子入りしていたようでもある。ある意味で変な社会正義感を持っているところもあるが、警官を無慈悲に射殺したりする異常な神経でもある。銃火器の知識と射撃の腕前プロ。日本だけでなく偽造旅券とIDでアメリカには何度も行って銃火器を日本に密輸、各地に隠し持っている。まるで外国のサスペンス小説を読むようだが、これが全て警察の裏付け調査で事実と判明している。更に長官狙撃当日の供述に関して犯人しか知り得ない事を明確に言っているのだ。

読んでいくと、中村の真犯人は間違いないと確信するに至る。しかしこんな事実が表面化しない日本の警察官僚と記者クラブの馴れ合いとは一体如何なるものなのか、検察も含め容疑者の逮捕とか起訴とは如何なる事実に基づくものなのか、大きな不信感を抱かざるを得ない。


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