2023年11月21日火曜日

消えた日本人

 体力が衰え理解できる世界が段々狭まっている。故にこのブログも個人的なことを多く書いてしまい読者が減るかも知れぬが、それは已むを得ない。今日は月刊文藝春秋12月号に掲載されていた藤原正彦氏の「私の代表的日本人ー河原操子」を引用しながら書きたい。執筆者は巻頭随筆でお馴染みだが、今月号は2箇所で執筆していることになる。この雑誌は毎月購入しているが、数日前に先月号以前の5冊を捨ててしまったので、今回が(四)となっているが、これまでのことは既に記憶が無い。

兎に角、今回の河原操子さん1875年生まれで松本市出身の信州人。しかも武家の娘。興味深い思いがあったのは執筆者の藤原氏も父新田次郎氏が諏訪の出身なので、信州と縁が深い。それは扨て措き、今回この記事で思い出したのが母方の祖母。1887年生まれだから、河原女史よりは一回り若いが、同じように信州松代藩の武士の娘だった。3男に生まれた小生は幼いころから、祖母に格別に世話になって育ったものだ。

3歳の時熊本県庁に在職していた父が急に海軍軍属としてバリ島に出征することになり、弟の出産の手伝いに来ていた祖母が、私を引き取り先に長野に帰り、母と兄二人は片付けが終わってから長野に帰る段取りが決まったのだ。3歳児と言えば言葉もままならないほんの子供。お乳をせがむほどでなくても、祖母に添い寝してもらって育った数十日はやはり相当なインパクトがある。しかも、暫くして母や兄たちは長野と一緒になったが、今度は日本が敗戦。父との連絡が途絶えてしまった上に、住んでいた長野の家を引き払わざるを得なくなる。

詳しいいきさつは省略するが、兎に角祖母の実家がある松代(当時は町)にまた転居。ここでも既に寡婦になっていた祖母が大奮闘。河原女史が父から渡満に当たり、自決用の懐剣を授かることが書かれているが、自決用懐剣が仏壇の引き出しにあったことなどが思い出された。藤原氏は河原女史を代表的日本人として掲げたが、小生とすれば、代表的とは適切でないような気がする。むしろ今や絶滅した希少人種として捉えるべきと思う。

記事を読んで感じたが、確かに明治初期にあっては代表的で、我が祖母もその一人だったかもしれぬ。しかし、その後大正、昭和、平成、令和と時代が進み、河原女史或いは我が祖母のような女性は完全にいなくなってしまったと思う。

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