2021年11月4日木曜日

マスコミの与党化

 また我が国で数少ないクオリティーペーパー「日刊ゲンダイ」からの引用で恐縮ながら、昨今のマスコミ事情で一言。マスコミが巨大化しているので、どうしても世間の大勢に抗しきれないのは仕方ないかも知れぬが、マスコミの与党化が気になって仕方ない。今はあまり流行らないだろうが、中学生時代までは新聞などは「社会の木鐸」と称されていたものだ。

今日のNHKテレビのニュース解説「時論公論」によれば、コロナ禍で大きいダメージを被った芸術家と言われる人たちについて解説していた。確かに広い意味で芸術活動に携わる人々の活動が、人々の心を癒やすと同時に文化を形成していることは否定できないし、コロナ禍のダメージが多いことも容易に想像できる。ちょっと回り道をしたが、社会の木鐸と称されたマスコミも、文化の創造を無視し得ず、ニュースに文化芸能欄を設けたことは非難できない。

先の大戦以降になると、社会の木鐸もその恩恵に与り、文字での伝達から視聴覚での伝達に中心が移るにつれ、受け手、即ち読者、視聴者が急速に拡大して、巨大事業になってしまった。若い方は信じられないだろうが、小生が大学を出た昭和38年(1963年)当時は、文学部卒業生の入社希望のトップは今で言うところのマスコミ各社より、映画会社だった。いわゆる芸能人はラジオやテレビの世界からでは出現せず、全員映画スターと言っても過言ではなかった。

ところが現在は既によく御存知の通り、芸能人はテレビで売れなければ話が始まらない。当初新聞社の子会社として発足したラジオ局も今やテレビ放送が主体になり、社会的に親会社の新聞社を遥かに凌駕する存在になってしまった。これは皆芸能番組のおかげと言ってもいいだろう。新聞にしてもテレビにしても報道記事や番組とその他の比率は完全に逆転してしまった。

単純に逆転するだけならまだ良いが、報道そのものが芸能番組化し始めているのが日本の特徴だと思う。思うと言ったのは外国の例を知らないからだけのことで、僅かに知っている外国の報道記者活動を見る限り、外国には命を賭けて報道に携わる記者が結構いるが、日本でたまに見聞する記者は殆どがフリーの記者で、企業に所属する記者で誠心誠意問題を追求する記者は見当たらない。広告収入に頼る新聞や放送局は仕方にとしよう。

ならばNHKがあるではないかと思いたいが、NHK自体が視聴者ににおもねて低俗化しているのだから救いがたい。肝心の「日刊ゲンダイ」からの記事紹介が遅くなってしまった。ヘッドラインで『野党論客の落選に「批判ばかり」と報じるメディアのトンチンカン 元NHK政治部記者も使命放棄と指摘』中で「本来であれば、政府、与党の姿勢を批判するのはメディアの役目であり、その使命をメディアが放棄しているため、代わって野党議員が前面に立たざるを得なくなったのではないか。」と書いている、全く同感だ。

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