2021年9月5日日曜日

小田原評定

 慶応3年(1867年)の秋10月、将軍職にあった徳川慶喜が朝廷に上奏した大政奉還の文章にはこうある。「前略、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑當ヲ失フコト不少、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄德之所致、不堪慙懼候、後略」砕いて書くと「私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第であります。」

結論として「この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。」政権を投げ出す姿勢を見せた。しかし、本心は未練たっぷりで結果的には鳥羽伏見の戦いを惹起した挙げ句に戦いに負けて、己だけ大阪湾から船で江戸に逃げ帰ってしまった。

その後江戸城には全国の諸侯約300人が続々と詰めかけ、数日に亘る有名な小田原評定が繰り広げられる。現在の自民党国会議員数は360人くらいと聞いたように思うが、大人が300人も集まれば簡単には意見が纏まらない。ましてや主題は権力を投げ出すかどうかだ。故郷長野市の隣町須坂藩の藩主堀直虎なんかは、徳川慶喜に向かって詰腹を迫り、拒否されたら当日江戸城内で自分が腹を切って死んでしまったりした。

なんと言っても侍の世界、威勢のいいのが大勢居て、薩長の芋侍と一戦を交えようとの意見も多かったが、結局は謹慎に落ち着いたようにも見える。勝海舟なんて直参の侍が側に居て、小泉進次郎氏のような役割を演じたかどうかは分からない。しかし戦争の火種は残り、戊辰戦争の内戦は3年とかからず終わっても、暫くすると西南戦争と言う内戦が又もや勃発、何やかにやで明治政府が確立するのは憲法が公布された1890年まで23年掛かったと見るのが妥当かもしれぬ。

小田原評定も若い人ばかりなら面白いだろうし意味もあろうが、現代のようにゾンビみたいな年寄が混じっていてはどうかと思う。これを実況報道をしているマスコミが問題であるのは再三指摘してる通り。聞くに耐えないのは「新しい首相が一体何をしてくれるかを明確にしてほしい。」少なくともマスコミに登場するなら「新しい首相には〇〇をしてほしい。」と明確に言うべきだ。かつて占領軍総司令官だったアメリカ陸軍のマッカーサー氏は「日本人の精神構造は14歳の少年並み」と評したそうだが全くその通りだ。

自分の意志を明確に発言せず、空気に流された発言を繰り返す。結果的に嘘をついたことになる。よくよく考えて見る必要がある。

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