2016年9月6日火曜日

政府の世論づくりと日中関係

生まれた年の日本がどんな状況にあったかは、当然ながら記憶には何もない。大分大きくなってから父に聞いたのは「当時の奈良は1年じゅうお祭りみたいもので、大変華やかな雰囲気にあふれていたよ。」だった。昭和15年4月が誕生月だが、正に皇紀2600年、父は奈良県庁で総務部庶務課長から知事官房長なんかの役職にあったようだ。敗戦直後南方で虜囚生活を強いられた苦しさを語ることは少なかったが、南方に行く直前まではお役人様でのんびりしていたことを懐かしんでいたのかもしれぬ。

このくらいしか生まれた時の状況についての認識が無かったが、文藝春秋9月号の特集「戦前生まれ115人から日本への遺言」を読んで大分認識が変わった。特に印象深いのが小林信彦さんが書かれた昭和15年に関する記述である。「私は東京下町の和菓子屋の息子で、中級の生活をしていたはずだが、食べたいものが食べられないことになったのは、昭和15年の紀元2600年騒ぎの頃だったと思う。」

と書き始め、この年が狂気の始まりだったとして、歌手のディック・ミネも煙草のバットもチェリーも許されず、日本名に改名を余儀なくされたことを指摘している。たいして齢に違いが無い兄二人を含め、体格が悪いことを恨めしく思ったこともあるが、考えてみれば当時の日本は現代の北朝鮮同様の先軍政治で、国民の食糧より大砲軍艦建造を優先していたのだろう。この特集には1930年代生まれの方が多く寄稿されている。そして殆どの方が、現代の世相を大東亜戦争開戦直前の雰囲気に似てきていることを指摘している。

岡野俊一郎さんに言わせると「即ち仮想敵国を作り、危機感を演出し、戦争への道を準備する世論を形成しようとしているように感じるのだ。」全く同感せざるを得ない。明治27年の日清戦争以来日本はずっと大陸に目を向けて侵略戦争を継続し、その中でたまたま清国やロシアとの会戦に勝ったりしてしまった。結果軍人の一部がのぼせて夜郎自大な思想に陥ってしまったことはある程度理解できる。

昭和20年の敗戦で多くの人は冷静になり、反省もした筈だ。残念なことではあるが70年以上過ぎた現在、戦争被害の経験者が少なくなると、喉元過ぎればの感が否めない。忘却と反比例するように、対中国に関して夜郎自大の発言が度々耳に入るようになってきた。とりわけ気になるのが「現代の中国の軍事力では、日本自衛隊の戦力にはとても太刀打ちできません。」大真面目で文民である外務省関係者が言うことだ。

元防衛相にも似たようなことを言う人はいる。彼らは、自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入らない限り(アメリカ軍にならなければ)、戦力を発揮できないことは十分知っている筈。どうすれば日本人がアメリカ軍として外国と戦わなきゃならぬか?せめてアメリカ軍から北朝鮮ミサイル発射の情報くらいはちゃんと貰って来いよ。昨夜のとても会談とは言えない日中首脳会談を見てイライラが募るばかりだ。

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