2014年10月24日金曜日

秋の夕暮

久し振りに天気が回復して青空が見えてきたが大分寒くなってきた。都会では木々の紅葉を見ることが出来ぬが、テレビの気象情報など観て感じるのは秋が一層深まった感じだ。明日は長兄の葬儀、5人兄弟の3番目なので兄二人が亡くなってしまった今、生存兄弟では最年長、次はいよいよこちらの番だろう。人生でも秋の深まりを感じざるを得ない。

ところで日本語は面白い。秋が進むとつい「深まった」と言い、夏は深まると言わず「暑さが盛り」みたい言い方をする。春や冬は何と表現するか知らぬが、「春爛漫」や「冬籠り」なんて言葉が用法的に近いのだろうか?人生秋の深まりで思うのはやはり過去の事ばかり。何もすることのない毎日だから当たり前ではあるが、先のことについてはあまり考えることもない。過去についても昨日や先月のことではなくて、何年か前のことが強烈な印象で甦ってくる。

典型的には孫とのこと。冬が近付いたせいだろうが、孫と一緒に行ったスキーが本当に昨日のことようだ。今高校2年生の子が中学生だったので、少なくとも3年は前のことである。その後も1年に1度や2度は顔を合わせているので、大分大きくなったことは承知していながら、思い出すのは彼らが中学生時代の映像だ。これが人間の記憶力の不思議なところかもしれない。年が変わって既に300日余りが過ぎているのに、今年のことで思い出すようなこと殆ど無い。

単に思うのは10か月なんてあっという間のことだけだ。行き会う人も少なく、知識の吸収や人との意見の交換が極端に少なくなっている故だろう。普段脳神経への刺激が少ないので、振り返っても海馬には新しい情報が溜まっていない。ここ300日に蓄積された情報が少ないとなれば、過去から現在への距離感は300日前も10年前も似たような感じなってしまうのかもしれぬ。今日久し振りにあった古い友人からお菓子のお土産を頂戴して「これでお茶でも飲みながら、奥さんと大いに会話して脳に刺激を与えてください。」と忠告を受けてしまった。

因みに彼もここ数日家で単身だったそうで、脳への刺激が薄くて悩んでいたらしい。何でも今年孫が二人も生まれたので、昨年から今年にかけて奥方が孫の子守りで忙しく、好きな海外旅行に出かける暇が取れなかった。やっと落ち着いたので、お一人でニュージーランド旅行に出かけ、今日お帰りの予定だそうだ。男やもめは誰にとってもお疲れのことだ。如何にまめな彼でも、今夜からか明日からかに家事から解放されることと、夫婦の会話で脳が刺激されることへの期待は大きそうだった。

引き換え我が家は、二人とも見知らぬ地域に新発見を求める意欲に欠けるので、新鮮な刺激は少ないかもしれぬが、身近な話題と時事ネタで朝晩の会話に不自由はない。二人とも少しずつボケ始めているのだろうが、自然の摂理で仕方はあるまい。あと何年或いは何か月、兄たちを思えばもっと短くても不思議は無い。新鮮さに欠け生活であろうが、現在の生活パターンを出来るだけ長く続けるしかないだろう。

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