2013年3月26日火曜日

学生時代

もう1か月以上前になるが、来週月曜日の4月1日慶應義塾大学の入学式に招待された。案内文には次のような文言が並んでいる。「・・・・さて、義塾では、大学入学式に卒業五十年の節目をお迎えになられた塾員の皆様をお招きして、新たに社中の一員となる塾生諸君を祝福して頂くことにしております。・・・・」式が15時から始まるので14時半までに入場してほしいそうだ。

実は自分の卒業式に出席しなかったので、今回は出席の返事を出した。同級生からも連絡が来て、式の後で日比谷の帝国ホテルの地下にある三田倶楽部で同窓会もするからこっちにも出席してくれとのこと。勿論同意した。今頃になってやっと式の大切さに気付くのもどうかと思うが、後悔先に立たずで、情けないが大成しない凡人のなすことは大抵こんなものだ。こんな事から書き始めたのは場所が東横線日吉にあるので思いついたからだ。

学生時代、普通の学部は日吉に2年通うが、何故か文学部だけは1年しか通わず、2年生から三田校舎に行くことになっていた。日吉の校舎も懐かしいだろうが、小生の最寄駅千川から日吉まで副都心線1本で行けることになったので、この電車に乗って見たかった意味も若干ある。学生時代に通っていた当時は新宿の西口から青梅街道沿いに歩いて6,7分の柏木1丁目に住んでいた。

青梅街道は既に地下鉄丸ノ内線の工事が始まり、夜掘り返しのためは度々通行止めがあった。今や副都心となって高層ビルが立ち並ぶが、当時の新宿西口には淀橋浄水場が大きく構えていたので、駅周辺は猥雑なマーケットがあったものの人通りも少なく日が落ちればかなり暗くなって、駅前の広場の端に街娼のタバコの火がぼんやり見える風情だった。

新宿から山手線に乗り渋谷で東横線に乗り換えるので、学校帰りには友人と渋谷で遊ぶこともままあった。映画を見たり恋文横丁でラーメンを食ったり10円ずし屋に入ったり、時にはパチンコ屋や矢場に入ったりしたもした。そうだ、宇田川町には「テネシー」なんてジャズ喫茶もあった。ここで歌っていた平尾昌晃が慶応の学生と聞いて「へえー」と思ったことも記憶している。

いずれにせよ信州から出てきたばかりなので、自分では相当都会人のつもりだったが聞くもの見るもの皆物珍しく、東京出身のスマートな同級生にいろんなことを教わった。最近はめったに食べないが、同じラーメンでも塩バタラーメンなんてものも初めて食ったのが渋谷だった。何れにしても渋谷もかなりかなりごちゃごちゃした街だった印象が強い。道玄坂でパチンコをしていた時のこと、学生帽をかぶっていたわけでもないのに、後ろから声を掛けられた。「おー、学生さんか、安藤組だ、球を少し貰うぜ。」

同時に横から手が伸び、皿から一掴みの玉が掬い上げられた。多分若いあんちゃんだったような気がするが、怖くて顔も碌にみることが出来ずにすくんだままだった。当時のカルチャーショック、今となればすべてが懐かしい。今でも渋谷は歓楽街の筈、でも来週月曜日は直通電車だから下車する必要もないし、しようとも思わない。

2 件のコメント:

kiona さんのコメント...

爺さんは元祖・渋谷系ですね。安藤組の映画もありましたが、本物に声をかけられたんですか^ ^ 猥雑なマーケット、街娼のタバコ・・ 昔の東京の景色が見えるようです。

senkawa爺 さんのコメント...

kionaさん
コメントありがとうございます。
年を取ると昔が懐かしくなるものです。猥雑と書けば格好いいですが、現実にはぬかるみだらけで小汚い街だったわけです。渋谷も新宿も池袋も似たようなものだったと思いますが、渋谷が少しましだったかもしれません。
新宿が一番変わりました。
乗用車のネーミングでスカイライン、意味が分からなかったのですが、1976年ニューヨークに初めて行った時に通訳の人に教えてもらいました。当時ですら東京にスカイラインなんぞなかったと思います。まして大学1年生と言えば1958年ですからね。
今の新宿を少し離れて見ると、正にスカイラインがくっきり見えて都会を感じてしまいます。