2013年8月31日土曜日

西洋かぶれはしたくないが・・・

シリアの内戦は「アサド政権/反政府市民派」と二項対立で捉えることが出来るような単純な図式でないことは、一寸ネットで調べるだけでもすぐ分かるし、今朝のTBSテレビ「みのもんたのサタズバ」に出演した中東問題の専門家も指摘していた。アサド政権の役人や軍人が相当腐敗しているのも事実らしいが、反政府組織なるものが複数あって、反政府組織同士の戦争も激しいらしい。これらの組織にはそれぞれ外国の支援があり、武器も人員も相当数国外から流入しているとのことだ。

要するに戦いの構図自体があまりに複雑すぎて、俄かに理解するなんてことは土台無理なことだろう。それなのに何をトチ狂ったのか、我が国の総理は海外に居たにも拘らず『シリア情勢の悪化の責任は、暴力に訴え、無辜(むこ)の人命を奪い、人道状況の悪化を顧みないアサド政権にある。アサド政権は退陣すべきだ。』といち早く述べてしまった。流石に昨日発表された英国の攻撃離脱の動き等からも、少し拙いと思い始めたのだろう。官房長官が「攻撃があった場合、日本政府の態度については慎重に検討」と言い直している。

国連調査団が入るくらいだから、最近の戦闘で何回かは化学兵器らしきものが使用されたのは間違いなさそうではある。これも当初の報道では数千人の被害者で数百人死亡とされ、サリンでも撒かれたかと思ってしまった。しかし、これも映像を見た専門家(むしろサリン事件の経験者)によれば、サリンであればとてもあんなこと(身体の痙攣に水をかけている絵柄)では済まないものらしい。アメリカとフランスがどのような攻撃に出て、どのような結果を生ずるかは神のみぞ知るだろうが、また新たな戦争が一つ増えることだけは確かである。

ロシアや中国にも小生如き者には窺い知れぬ思惑もあろうし、アメリカの思惑もきれいごとでは済まない何かがあるのだろう。戦争を惹起する者は常に『正義』の旗を高々と掲げるそうだ。いくら『正義』であろうと日本が巻き込まれるのはまっぴら御免である。それにしても、英国議会が夏休み中に臨時招集され、一部与党議員までが首相の意に反する意思表示があった結果を受け、首相が翻意した。このシステムには見倣うべきことが多々ありそうだ。

2013年8月30日金曜日

幼馴染との昼食

それにしても今日は猛烈な残暑だ。週の前半は山の中で寒いくらいの中に居て、帰宅しても昨日までは暑さが少し和らいでいたので、正直なところ「参りました、勘弁してくれ」てな感じだが、まだ8月だから仕方ないのかもしれぬ。台風が本州にも近付いてきているようで、週末は天気が悪くなるらしい。これも季節のことで、一つの台風が吹き抜ける毎に少しずつ秋らしくなっていくことを期待するしかないだろう。

暑いさなかではあったが一ツ橋まで出かけ、久し振りに幼稚園から仲良しのN君と昼食を共にして近況を語り合った。長野でのお盆の話から発展して、彼が家の菩提寺に自分の墓石を注文したとの話になる。こちらは父の墓に入れてもらうつもりでいるから考えたことも無かった。しかし会話が寺とか坊主で随分抹香臭いものになったことを思うと、改めて互いの老い先が長くないとしなければいけないのだろう。

彼が来月末辺りに、北アルプス室堂方面にハイキングに行きたいとのことなので、アクセス等について知りうる情報を提供。話し込んでいるうちに、こちらも年齢相応のハイキングの魅力に惹きこまれた。外に出ると残暑の日照りは続いていたが、何となくこの夏はここで一区切りだ。月もすぐ変わることだし、この週末は天気も悪くなりそうだ。彼が話していたが、たまには映画館に足を運んで映画を見るのも良いかもしれぬ。

昨日彼から誘いの伝を受けたのが国会図書館内だったことを話すと、話の方向が変わり、彼の岳父がリタイア後、頻繁に国会図書館に足を運んでいたとの話になった。元々薩摩出身の方で、先祖と言ってもお祖父さんくらいか?著名な人だったらしい。維新の頃アメリカ留学した時の手紙が、資料として図書館に所蔵されていて、それを1年以上かけて読み解き、現代語に訳して自家出版したとのこと。

そんな話の中で思ったのは、昨日のブログで中東地域との関連で少し触れたが、明治維新前後の近代史のこと。彼の場合は家柄が良いので、岳父は自分の家系を辿るだけでも面白かったのだろう。我が家は国会図書館でいくら調べても資料が出ることはあり得ないが、北信濃の近代史なんかも少し突っ込んでみれば、意外に面白そうなことにぶつかるだろう。気候が良くなってきたら、国会図書館は絶好の散歩コースになる。この秋は少し的を絞っての図書館通いも悪くないと考え始めている。

2013年8月29日木曜日

アメリカ人も馬鹿ばっかしではないことを祈る

何処か遠いところらしいが、中東と呼ばれる地域にシリアと言う国があって内乱が続いているらしい。社会人になって間もない頃だった。当時日本はエネルギー確保の国家方針からか、この中東諸国と仲良くして行こうと言う方針を大きく掲げていたようだ。昔から社会情勢に疎かったのに何故覚えているかと言うと、当時勤務していた会社の社長が三重県出身で、衆議院議員(自民)の木村俊夫氏と同級生であったことにある。

この木村氏はそれほど派手ではないが、一時官房長官を務めたりしてそこそこの政治家だったし、何よりも中途外交を大事にして、アラファト議長を日本に招聘した人であることを今憶えている人は少ないだろう。我が社長は同級生の気安さもあり、こちらが担当していたビジネスに関してもお願いすることがあった。そんな関係から木村さんやその秘書さんと食事をする機会が何回かあった。

そう言った機会に聞いた話で、今でも強烈に印象に残っている言葉がある。曰く「中東諸国をどんなところかと聞かれても、上手くお答えすることが難しい。一言で言えば100年一寸前の日本のようなところとでもしておきますか。」70年代のことであるから明治維新から未だ100年一寸しか経っていなかった時である。幕末と言えばこの狭い日本でさえ300諸侯と言われるほど大小名が跋扈し、挙句の果てに各地に戦争が頻発したことぐらいは何となく知っている。

木村氏あるいは日本国政府はアラファトをその中で一頭抜きんでいると見ていたのであろう。しかし幕末日本に来た欧米人が日本の将来が分からなかったのと同じで、この地域の将来を簡単にを云々は出来ない。と語ってくれた。小生にとっても40年以上昔のことではあるが、地球上には他の惑星程に遠いエリアがあるものよと思ったものだ。大体中東なんて言ったところで、世界地図上正確に地域を指定できる人間が何人いるだろうか?

偉そうなことを言う報道関係者に聞いてみたいものだ。ましてお馬鹿を絵に描いたような政治家が俄か勉強丸出しで、日本の生命線=中東なんて言いだすのを聞くと耳を覆いたくなってしまう。その筆頭に立つ人間が、中東の大名か小名か訳のわからぬ国を歴訪するのは勝手だが、昨日突然シリアと言う国の藩主の名前(アサド)を特定して、退陣すべきと発表している。別に気が狂っている訳でもないだろうし、アメリカから言えと言われたから言ってるだけだろう。

悪げがないと言えばそれまでだ。それにしても日本のメディアが盛んに報道するシリアへの限定攻撃とは何だ?スポーツのゲーム開始を待つように嬉しそうな顔をしてほしくない、戦争ではないか。アメリカ人は欲ボケしすぎているのか、余程戦争好きと思っていたら、最新の世論調査でオバマに対して、「シリアへの限定攻撃を支持する」と答えた人は20%に留まっているらしい。流石にオバマも攻撃を決めた訳でないと言っているらしい。

盟友の機嫌を損ねたくない、日本の総理だけはいち早く攻撃を支持している訳である。また戦争かと思うと、何とも情けないでは済まない気分である。

2013年8月28日水曜日

我が山遊び


日曜日から昨日まで又山遊びに出かけたものの、何の罰か知らぬが天気に全く恵まれず、何とも感動の乏しい山歩きになってしまった。出かけた先は深田久弥の百名山にも挙げられている南アルプスの鳳凰三山、北岳に登った時にかなり綺麗に見えていたので、眺め返すのも一味あるべしとの思いで行ったが何のことはない。単純に歩行練習してきただけの感無きにしも非ずである。

やはり小生にとっての山の楽しみは「いい空気を吸って雄大な景観を望み、これをもって浩然の気を養う」。これは父の遺言と言う訳ではないが、子度の頃よく聞かされた言葉で、近くの山に遊びに行くとき「いってらっしゃい」代わりにいつも聞かされていたような気がする。遊びが少なかった時代に親とすれば、子供同士が近くの野山をほっつき歩くことは、奨励できる数少ないリクレーションだったに違いない。

64歳になって急に思い出したように山歩きを始めたが、やはり父の言った言葉が頭に刷り込まれていたのだろう。「只で行ける山は近くに沢山あるから大いに行ったらよい。但しお金がかかるような山歩きはいけません、もしどうしても行きたいなら、山は無くなりはしないから大きくなって自分のお金で行けるようになったら行けばいいのです。」

段々この言葉がインパクトを持ち始め、お金のかかる山の代名詞、アルプスの聖地とされる上高地に生まれて初めて入ったのが2006年9月となっている。
今から8年前の66歳の時になる。以来山に行ったのは約90回(61歳から勘定すると104回)、1年平均にすると10回以上は登山とスキーをしている勘定になる。親のお金でなく皆自前であるのは勿論だが、子度の頃と変わらずよく遊び歩いたものだ。

昔から誰の役にも立たぬつまらぬことばかり好きで困り者だったが、年をとっても三つ子の魂か知らぬが相変わらずだと自分でも思う。たまたま今回、遊びにしてはやや感激の薄い山歩きになってしまったことで、こうやって来し方を振り返る気になった。思うのは子度の頃から行きたい登ってみたいと思っていた山は殆ど行くことが出来たことが先ず第一番。

次に思うのは段々難しい山にも行くようになってきていること、ある意味で身体条件(劣化)に反比例する行為で危険であること。今月初め南アルプスでも難所とされる聖岳に行った時、非常な幸運だと思うが、たまたま親切な人に巡り会って無事目的を果たすことが出来た。今回も全く同じである。同じ人の誘いを受けて同行させてもらったが、気象条件が悪かったので一人だったら遭難していた可能性も十分ある。

濃霧の中で道標を見失い迷いそうになって、同行者に助けてもらったのは2度や3度できかないだろう。特に南アルプスは登山道が厳しく、崖登りの要領を得ないとクリアーできない道が多いのに加え、登山者が少ないので北アルプスに比べると一寸した事故でも危険性が高い。何れにしてももう単独行は無理だろう。何よりも今後はもう3千メートル級の山を目指すことを止める時期に来ているような気がしてきた。

今回の山歩き詳細は下記をご参照ください。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-338646.html

2013年8月24日土曜日

2020年オリンピック招致

2020年の開催地の正式決定は来月7日にアルゼンティンのヴェノスアイレスで開催されるIOCの総会でなされるようだ。これに向けての日本招致委員会の出陣式が昨日都内で開かれ、安倍首相や猪瀬都知事他多数が集まって気勢を上げた。お祭りの実行委員会とは言え、財界や政界を含むそうそうたるメンバーで、正に国を挙げてのことである。集まった人数も600人以上と報道され、参会者のはしゃぎようはお祭りの前夜祭のようである。

何をもって結果を予想できるのか全く分からないが、このスポーツの祭典を招致する意味についても理解に苦しむ。理事長様のご挨拶には「スポーツを通じてこの国を元気にしたい、少しでも人々の支えになりたい・・・招致が実現すれば、日本国中を活性化する大きな力となるでしょう。」とある。商業化されたイベントだから経済活性の一助になる、とは分からぬでもないが、エコノミックアニマル丸出しの弁には白けざるを得ない。

対する競争相手都市はスペインのマドリードとトルコのイスタンブールだが、前者は慢性的な経済不況で、日本の報道では祭りを実行する経済力が無いのではと言ったことを暗示しているし、後者は政治が不安定で反政府デモがしきりだから安全面に問題があるそうだ。だから日本は優位だろうみたい暗示がされている。素直な人は報道に同調して喜んでいるだろうが、へそ曲がりのせいでその気になれない。

昭和39年(1964年)の東京オリンピックはどのようなプロモーションが行われ、どんな経緯があって決定したか殆ど記憶が無い。恥ずかしい限りだがもう社会人になって2年目と言うのに、如何に日常の社会の動きに疎かったかがよく分かる。幾ら毎晩酒を飲むのに忙しいからと言って、新聞に目を通していない筈は無いと思うのだが。テレビを持っていなかったことだけははっきりしている。開会式の10月10日が日曜日だったか休日になったのか記憶が無いが、何故か開会式の模様を長野のパチンコ屋に置かれたテレビで、ちらりと見た記憶があるのが不思議だ。

婆さんは赤坂にあった短大の寮に居たそうで、ブルーインパルスが神宮上空に描いた五輪の輪を直接見たらしい。当時の東京に猪瀬知事が自慢するような巨額の財政的余裕があったとも思えないし、安全面で言えば相当不安な国柄であったと思う。しかし、誰かが東京開催のために努力奮闘して開催に漕ぎつけ、その開催は経済活性化効果もあったと思うし、国民の大多数は海外に行くことなんぞ夢の又夢の時代である。そこへ全世界からアスリートや関係者が来日して、世界中の耳目を集めたのだ。

当然のことして国民の側にも、これからは世界中の国々と付き合っていくのだといった高揚感も生まれたと思う。比較して考えるに、放射能で汚染されている東京に身体細胞活動が活発なアスリートを大勢招くのは遠慮した方が良いような気がしてならない。

2013年8月23日金曜日

「24兆ベクレル」意味は全く分からないが

総理大臣は夏休みとのことで暢気にゴルフ三昧に興じている間に、東電福島第1原発の事故現場では地上タンクから深刻な汚染水漏れが発覚している。既に様々な報道がなされているが、20日に東電が認めた漏洩量は過去最大の約300トンに上り、汚染水から放射性物質が1リットル当たり8千万ベクレルと極めて高濃度で検出された。漏れた放射性物質量は24兆ベクレルと推定されている。

さらりと報道されているが、近隣漁連関係者でもない限り余り深刻に受け止めていないのではないか。正直なところ、小生にもピンとこない。そもそ放射性物質もベクレルなる単位も何をどう意味するか理解できないのである。しかし汚染水が危険であるから態々鉄製のタンクに格納していた筈ぐらいは分かる。しかもその汚染水が溜まり続けて、既に千本を超え尚2日に1本の割で増え続けているらしい。

譬えが的を射ていないかもしれないが、福一はある意味の火事場みたいもので、消防活動が続いているものの一向に火が止らない状態にあるのと同じではないか。一般に火事となれば自治体から消防や警察が出動して、消火や地域の整理にあたるとしたものだ。近隣住民には迷惑をかけることになるが、鎮火まではその活動に協力を要請して、避難してもらうことは大いにあるだろう。そしてこれに協力しない住民は聞いたことが無い。

ところが、福一の場合は火事とは大分様子が異なるのはご承知の通りである。確かに地域住民に対する避難指示は政府が出している。しかし消火に関しては火元の一企業東京電力に任せきりみたいだ。このことは少しおかしくないだろうか?政府は国民の生命と財産を守るのが国家の役割と声高に叫んで胸を張っている。全くその通りで、消防や警察もそのために組織されているものだろう。災害出動もあるのだから自衛隊もその範疇に入るかも。

漁民の皆さんの心配を暫く置くとしても、10万人以上の人を避難させたままで、政府組織が火元に何も手を出さない国家てなんだろう?トップは夏休みが終わると又外遊日程がぎっしりだそうだ。外遊で思い出したが、事故は発生当時の東電幹部は殆ど海外に滞在中らしい。責任当事者が家族共々海外滞在中は少しふざけ過ぎてはいないか。婆さんは福一の中で生活させるべきと言っている。おっかね~。

最近になってたまりかねた住民からの訴訟なんかも出ているようだが、この扱いを巡る政府の態度も曖昧のようだ。マスコミも含めて全てのことがすっきりしない。質屋の番頭さんみたい東電社長を映像で見るたびに思うのは、国のリーダーの無責任さだ。東電を破綻処理させるとかさせないの問題以前に、国家の果たすべき責任に思いを致していないところに最大の問題があると思う。

2013年8月22日木曜日

幸福感

一昨日我が家のテレビ受像機買い替えについて書いた。昔、広告会社の大阪支社勤務時代に全盛期の松下電器を知っているので、同社の製品が量販店の目玉商品になっていることに、栄枯盛衰の哀れを感じてしまった訳である。今日は懐かしい歌手の藤圭子さんが自殺したとの報道もある。何が原因か分からないが、経済的原因は考えにくいのではないだろうか。娘さんの活躍を考えただけでも、お金の不自由は無さそうに思えてしまう。

企業と個人を同列に論ずるのは大分無理があろうが、これ以上ないほどの幸福感は、これを長時間維持することには無理がありそうだ。そもそも幸福感は個人的なことで、具体的にどんな気持ちかを書くことさえ難しい。何処かのコマーシャルに「お前の夢は金で買えるのか?」と偉そうに説教した上司を、部下が宝くじの売り場に発見する、てな皮肉が利いた設定があった。しかしお金が無くて幸福になれる人は稀有ではないか。

勿論小生だってお金がまるきり無ければ幸福感なんかとても抱けない。幸せとは難しいなと思っていたら、たまたま今日ネットで面白いものを見つけた。中部大学武田邦彦教授のブログからである。氏は元々原子力科学者で原子力発電を推進してきた人だが、311以降宗旨を換えて脱原発論者になっている。それと、炭酸ガスによる地球温暖化説には311以前から否定的であるので、友人から氏の論への傾聴を薦められていた。
http://takedanet.com/2013/08/post_e56a.html

詳しくは上記URLで、氏の語りを聞いてほしいが、幕末から明治初期にかけ英国からやってきた公使オールコック氏の日本の農村描写に添えられた一文である。曰く「気楽な暮らしを送り、欲しいものも無ければ、余分なものもない」
武田教授に言わせると、当時の欧米社会から見ると、日本の統治機構は羨むべきものがあったらしい。下々の民が満足して幸福感に浸っていたとすれば、そう思うのも当然のことだ。

我が身を振り返って思う時、年金以外の収入が無くなり不安を覚えることは大いにある。しかし無い物ねだりをしても始まらない。「大体何が不足で金の乏しいのを嘆くのか?嘆いてみたとて、既にお金が入る道はしっかり閉まっている。」気楽になれるかどうか分からないが、幕末のお百姓さんの気持ちになってみることにしたい。福一の新たな事故(水漏れ)に関して東電や政府を非難しようと思ったが、全く別の話になってしまった。

2013年8月21日水曜日

読後感「吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一」湯浅博著

戦後の占領時代に長いこと首相の座にあり、警察予備隊創設に直接関わったことを思えば、吉田氏に軍事顧問が居て当たり前、むしろ居ないと思う方が無理かもしれない。しかし辰巳栄一氏の名前は本書を読むまで全く知らなかった。氏は旧帝国陸軍の大幹部で、昭和18年には既に中将にまで上り詰めているから半端な幹部ではない。しかも昭和21年5月に任地の支那から復員すると、直ぐに吉田氏に呼び出され、占領軍との折衝等をサポートして吉田政治に深くかかわった。

にも拘らず、その名前が表に一切出ることなく今日まで来たのではなかろうか。ひょっとすると知らぬは小生ばかりで、近代史を余りに知らな過ぎるからかもしれぬ。改めて歴史には表と裏があり、表に出ることなく蓋を閉じられているが、後世に大きな影響を残す事件や人間が多いことを痛感した。

佐賀県出身の辰巳氏は明治28年生まれ、大正4年陸士第27期生で卒業、大正14年陸大を恩賜の軍刀組で卒業した秀才である。昭和5年に英国大使館付きを命ぜられて、以来3度にわたる英国大使館勤務で都合10年を英国で過ごすことになる。大使館付きの武官は諜報の最前線にいる訳で、まして当時の英国は世界中の情報が集中するところであり、辰巳氏はその渦中にあって、本土の参謀部とはかなり異なる認識を持つに至ったのもごく当然であったに違いない。

しかし当時のヨーロッパはドイツが台頭し始め、日本でもドイツの「バスに乗り遅れるな」みたい雰囲気が醸成されつつあった。この辺の情報分析の甘さは後世批判が強いが、軍部においても政治や外交の世界でも残念ながらそれが主流になっていったのも事実である。政治の世界では外務省出身の吉田茂氏も当時の主流からは外れた英米主義者の烙印が推され、昭和11年に駐英大使に飛ばされ、同14年には退官を余儀なくされているている。

この吉田駐英大使時代の大使館付武官が辰巳氏で、日独伊連盟の危険性については大いに共感するところだったのだろう。結局辰巳氏は真珠湾攻撃を大使館で知る事となり、翌年交換船で帰国。終戦間際(20年3月)に支那に師団長として転任するまでは、ロンドンで首都防衛を経験したからとの理由で首都防衛を所管する参謀長を務めることになる。根っからの軍人ではあるが、英米に多数のコネクションを持っていたせいでもないだろうが、戦犯指定も受けていない。

そして前述のように、復員すると同時に吉田氏の依頼を受けて、首相の軍事顧問となった訳である。吉田氏は外交と軍事が表裏一体であることは十分承知したいただろう。辰巳氏は影の顧問と言われているが、当時のGHQとの折衝では民生面の白洲次郎氏と双璧で、軍事に関わる事案についてはかなり前面に立ったようである。そして昭和25年には朝鮮動乱が勃発、マッカーサーの占領政策も言わば180℃転回して日本に再軍備を迫るようになる。

かくして、日本では憲法には手を触れぬまま、鵺のような軍隊の警察予備隊の創設になるのである。このとき吉田とマッカーサーの間でクーリエを務めたのが辰巳と言うことにいなるらしい。もちろん初めて知る話だが、この警察予備隊の落ち着きどころを得るまでには、辰巳VS吉田には相当な激論が交わされたようだが、結局アメリカの言い分が多く通ったのはやむを得ないことだったのか。

最近になって自衛隊の存在と米軍との関係が何かと大きな問題になりつつある。その根源となった警察予備隊の創設に、いかに間に合わせとは言え、深くコミットしていた辰巳の知名度がこんなに低いことは驚くべきことではないか。

2013年8月20日火曜日

家庭電化製品

亡くなった兄は手先が器用で、中学時代に職業家庭の時間に製作した椅子なんぞは大変うまくできていて、家庭でも重宝していた。ところが小生はまるきりその方面の能が無かった。小学生時代には、冬になると皆手製のそりを橇を作って競い合ったが、小生はいつも亡くなった兄に手伝ってもらうと言いうより、作ってもらっていた。兄は写真も好きで、押入れに暗室を作った話はいつか書いたように記憶する。

戦前から家にあった古いベスト版のカメラに工夫を加えて、6枚撮りのところを12枚撮りに変更したり、黄色フィルターを苦労して装着できるようにして、逆光での撮影を可能にしたりしていた。自分で撮影した写真を如何に上手に印画紙に焼き付けるか苦労していた姿を思い出す。今にして思うと、こんな時にはいろいろ手伝いなんかして、学年的には4年の差があったが結構仲良くしていたものだ。半世紀以上前の話を持ち出したのは以下の理由である。

今朝茶の間のテレビが急に映らなくなってしまった。原因は全く不明だがアンテナの回路でないことだけは確かである。小生の自室のテレビは何の問題も無い。予備電源のランプが点灯しているので電気の断線も考えにくい。何でも購入して8年目の代物とのこと。婆さんが買ったビックカメラに電話をすると、点検に伺うだけで5,500円(修理代は別見積り)を頂きますとのことだったらしい。小生の機械音痴は既によく分かっているので娘や友人に相談したらしい。

いろんなアドバイスがあったようだ。娘はケチなので「修理すれば」とのこと。
友人は「テレビなんてものは概ね10年で寿命としたものだから、いっそ買い換えたら。今テレビなんか安い物よ。」だったらしい。修理費が幾らになるか分からぬし、テレビが幾らくらいするものかヤマダ電機に問い合わせてみたとのこと。今使っているテレビのサイズであれば、5万円も出せば新品になるらしい。婆さんも驚いたらしいが小生もびっくりした。家電製品が安くなっているとは聞いていたが、39インチが5万円とは。

これで10年も20年も使われた日にはメーカーもお手上げだろう。事務所に電話が来たのでネットで調べると、成程パナソニックの39インチVIERAが4万9,445円となっている。婆さんはパナが嫌いで東芝びいきだが値段には勝てないとのこと。買い替える決心をしたようだ。それにしても安い、嘗て松下のテレビと言えば日本のトップブランド。量販店の目玉になるようなことはなかったのではと思うが、変われば変わるものだ。

ざっと見た感じで言えば、むしろ韓国製品の方が値段がしっかりしていそうだ。
何が原因か分からぬが、日本を代表した家電産業の凋落を目の当たりにした思いである。政府が叫ぶ景気の良い掛け声を思い起こせば、その代りに勃興している産業分野もあるのだろうが、それがどこにあるかは詳らかにしない。

むしろ冒頭に書いた光景、終戦から既に10年経過していても、日本の家庭の殆どはテレビも無ければ冷蔵庫も洗濯機も無い生活をしていたことを懐かしく思い出してしまった。

2013年8月19日月曜日

立つ瀬を捨てる妙

乞ご容赦。趣味の世界の話なので関心無い方には分かり難いと思います。
下手の横好きで、自分はからきし弱いのですが、テレビでプロの碁を見るのが大好きで、NHK囲碁トーナメント番組を毎週必ず録画して観るのが日曜夜の習慣となっています。昨夜も食事を終ると20時までは「BS日本のうた」を婆さんと一緒に見て、その後は一人寝室に籠って囲碁番組をゆっくり観ました。昨日の対局は一方が張栩氏、勿論9段で若い時から数々のタイトルをものにし、まだ33歳ですが世界に名前が知られた大棋士です。

碁を打つ人であれば恐らく知らない人がいないのではないでしょうか。若い時の長嶋茂雄選手のような人です。対する棋士はこのトーナメント初出場で、若干18歳の余正麒さん。実は余さんのことを忘れていましたが、このトーナメントの第1戦で小林覚さんと言う長野県松本出身の大ベテランを破る金星を挙げていますが、まだ3段です。将棋の段位で言えば未だプロとして認められない段位です。私もこのトーナメントに3段の棋士が出場したのを見たことがありませんでした。

張栩氏はシード選手ですから第1戦目。勝敗は自ずから決まっていると思って観ていました。両者とも台湾の出身、解説も台湾出身のベテラン棋士の王立誠さんでした。王さんも当初は余さんのことを余裕をもって褒めたりしていましたが、中盤になると、相手の強さを知らずに少し打ちすぎているみたいなことを言っています。碁が少しわかってくると、一手一手を交互に打つゲームですから、この「打ち過ぎ」が如何に危険かと言うことが分かってきます。

我々が笊碁を打つ時は10目差20目差の勝ち負けが幾らでもありますが、プロの碁では3目差以上は大差と言われるほど、微妙なバランスのゲームであります。昨日の解説を聞いていると、王さんは明らかにそのことを指摘していたわけです。ですから常識的に言えば、余さんは打ち過ぎを咎められてあっさり負けとなる筈でした。ところがです、結果は余さんの勝。囲碁は目数の差はあまり問題にしませんが、4目半の差でした。

最近スポーツの世界では水泳と言い、ゴルフと言い若い選手の活躍が目立ち喜ばしいことです。囲碁の世界にも若い選手が頭角を現すのは嬉しい限りです。余さんは関西棋院所属ですから大阪の方のようです。最近の囲碁界は大阪勢が頑張っていますので、東京からも若手の強い棋士が誕生することを期待しましょう。

棋士の話だけで終わってしまいそうですが、肝心の昨日の勝負の見どころは余さん自身が最後に感想を述べましたが、捨石の妙にありました。解説者や対戦相手の名人上手がまさかと思う「要石」をものの見事に捨てたのです。若いのによくもやってのけたのか、若いから出来たのか分かりません。何れにしても見応えのある一番でした。

2013年8月18日日曜日

読後感「鏡花随筆集」吉田 昌志 (編集)

久しく活字に触れていなかったが、書店を覗いても食欲をそそる本がなかなか見つからない。何気なく岩波文庫の新刊にあったこれを買ってしまった。泉鏡花について知っていることと言えば「高野聖」の作者である事くらいのものである。「高野聖」もおぼろげに内容を記憶するのみで、特別な印象を持っている訳でもない。たまには明治の作家の日常に触れてみるのも良いか、と思っただけのことである。

昭和でさえ遠くなっているので仕方無いだろうが、明治とか大正時代の何と遠いことか。随筆と言えば平易な言葉遣いとしたもの、我が祖父さん祖母さんが使っていた日本語の筈である。しかも鏡花は夏目漱石や芥川龍之介のようなインテリ学士様ではない。高等小学校卒業後に金沢のミッション・スクール北陸英和学校に一旦進学したようではあるが、ここも中退して18歳で上京、尾崎紅葉を訪ねて住み込みの書生となっている。

しかし書かれた文を読み解くのは容易でない。下手な翻訳本以上に末尾に添付されている(注)を参照しながらでないと前に進めない。尤も明治大正時代の人が現代の随筆に接すれば、訳の分からぬカタカナ言葉で同じことになるのかもしれぬが。仕立てが年代順になっていないので、頭の方で大正12年(1923年)9月1日の関東大震災に絡む随筆が何本か出てくる。年齢的には既に50歳、既に番長に家を構え作家としての地位も確立している。

この時の描写を現代の311大震災と比べると、面白いと言っては語弊があろうが、自然災害に対する人間の考え方(言わば諦観であろうか)の相違を強く感じる。全体を通して思うのは、昔の作家は殆どそうであったのかもしれぬが、
文章が悉く韻を踏むような、調子又はリズムを持っていることだろう。ではあるが、使われている言葉は厳選されているのか、決まり文句とは少し異なるような気がする。

この辺のことは現代の作家が大いに学ぶべきことなのかもしれない。言葉や文字を大切にすることは、師匠の尾崎紅葉氏譲りらしい。印刷所の活字職が判読できないような字を書くことを厳に戒められたと書いている。近年悪筆を自慢するような作家がいると聞くが、これを読めば何と言うだろうか?


2013年8月17日土曜日

平和と安保

最近時々変な違和感を感じる。これまで住んでいた日本国とは明らかに異次元の世界に放り込まれた感に襲われることがある。住んでいる住所は日本の首都のど真ん中で、行き交う顔も皆お馴染みではあるが。テレビ新聞で政府の打ち出す方針などをたまに見聞した時、そう言った感じに襲われることがある。政府は昨年暮れ発足したばかりだが、日本国憲法に基づく正当な選挙の結果そうなった訳だから、違和感を抱く方がおかしいかもしれぬ。

とは言っても、前のエジプト大統領モルシさんも正当な選挙で選ばれたにも拘らず、数か月でクーデターが起きて、大統領の座から引き摺り下ろされてしまった。なんでもイスラム経典に忠実な政策を矢継ぎ早に打ち出した為らしい。選挙で示された国民の意思と選ばれた方の意思との齟齬が顕著だった例だろう。エジプトの選挙制度が如何なるものか知らぬが、日本の場合は選挙公約があるのでそんなことにはならぬ筈だ。

と信じているが、自民党の公約をじっくり検討もしていないので少し不安になってくる。経済政策については自ら異次元と称していたくらいだから、違和感を感じても不思議ではないが、経済は全くの音痴で何を聞いても違和感なんか起きようはずもないし、内閣自身が自認するので、「そうですか」程度のことだ。

問題はもっと根源的なところにある。現内閣が見据える方向性で、これは明らかに戦後68年、先人が営々と築いてきた平和路線を換えようとしていることが明らかになりつつある。今にして思えば、安倍総理は前々から「戦後レジームからの脱却」と仰っていた。しかしこれが、総理ご自身のご先祖様や自民党の先輩諸氏が苦労に苦労を重ねて守り続けてきた「平和」と「非戦」を根底から覆すとは夢にも思っていなかった。

びっくりする方がおかしいし、勿論公約違反でも何でもない。総理は己の信念に基づき、その実現を目指して陣営を固め、正々堂々歩を進めているのであろう。しかしびっくりしたのは事実で、世代がそんなに違わないから思考回路に大した差があるまいと考えたのが大間違いだった。中には同世代の人間にも、「安保法制懇」なる安倍氏の考えにお墨付きを与える諮問機関のメンバーになってヨイショをしている向きもある。

何がどうして急にこんなことになったか不思議で仕方ないのだが、世の中にこんなに戦争好きが多いとはびっくりする。極端なことを言えば緑に包まれていた「日本」が、急に茫漠たる砂漠の中に移転させられた思いなのである。余命が短いことを感謝するが、子や孫たちは一体どうなるのだろうか?話し合ったことも無いが、我が家に戦争好きのDNAがあるとは思えない。まして世の中の動きをリードできるほどの資質も無い。平凡に世の中の流れに沿って生きていくだけだろう。不幸にならぬことを祈るばかりだ。

2013年8月16日金曜日

手紙

先日思わぬ人から残暑見舞いを貰った。たった1枚の葉書で、書いてある内容もそう多くはない。しかし手書きの文面には、文字以上の内容がびっしり含まれているような気がする。人間同士のコミュニケーションは互いに顔を合わせて言葉を交わすにしくは無い。目は口ほどににものを言い、である。合い見て話し合えば、例え束の間の逢瀬であっても思いは通じ、満足に繋がる。昨日、1年以上会ってなかった孫の顔を見てしみじみ思った。

それが適わぬとなれば、せめて電話でもと言うことになるのか。歩きながら、或いは自転車に乗りながらでも電話をしている人たちを見るにつけ思うのは、この人たちは一体何を話しているのだろう?簡単な伝言なら兎も角、仕事であれ私用であれ、本当に自分の思いを伝達できるのだろうか、とてもそうとは思えない。比較すれば手書きの手紙には、明らかに思いを伝えるより強い力あるだろう。

しかし便利さにかまけて手紙を書かなくなったのは事実。実際に中元歳暮のお礼でも葉書を書くより電話で済ますことが多くなった。多くの友人知己も同様のようだ。中でたった一人だけ、何十年来と進物の礼状を手書きでくれる友人が居る。互いに1年に1度会うか会わずの仲で、あってもさしたる話がある訳ではない。しかし面白いもので、手紙を貰うたびに彼と共有している思い出が鮮やかに甦るのが実にうれしい。

上手と下手には関係なく、独特の筆跡から思い浮かべる知友の姿は懐かしいものだ。文を書くのも貰うのも、これから減る一方のことだろう。携帯電話も一応持っているが使うことは滅多に無い。珍しくそのベルが鳴った。婆さんから「眼鏡屋から電話が来て、注文の品が出来たそうよ。」との連絡だ。残暑見舞いに返事を書き掛けていたところだったので、一向に進まぬ葉書書きに比べ電話の便利さを思うが、便利さの代わりに失いつつあるものをふと思った。

2013年8月15日木曜日

親戚の話から見えてきたこと

景気が着実に回復傾向にある。総理や日銀総裁はそう言って胸を張り、その言を否定するマスコミは少ない。お盆で甥や姪を含む多くの親せきと会話をすると、普段夫婦の会話からだけでは見えてこない多少広い世間が見えてくる。

大手半導体メーカー勤務の娘の亭主も、輸出が伸びているので会社の業績そのものは悪くないそうだ。大手ビールメーカーに勤務している姪の旦那は売り上げが伸びていることを証言するし、ヨット販売に従事する姪は「いつの世にも金持ちはいるので、景気不景気は関係ない。」とのたまう。ワイン販売をしている義弟は、一昨年の東北地方大震災以降むしろワインの販売量が増えていると言っている。

内輪の話だけからすれば何となく景気は悪くなさそうだが、各家庭の実入りについては増えている様子は見られない。大手企業はむしろ社内のリストラを更に進める構えらしいので、雇われ人の社員としては漠たる不安を拭い去れない。ある種の酒類が良いと言っても、腹に納まる酒量が増える筈も無く、他の酒類が割を食っているだけ。半導体も海外市場が頼りだから、国内で雇用が増える筈も無く、首筋はいつも寒々している。典型的なのはレジャー産業、ヨットは何とかなっているが、長野のスキー場はもうどうしようもないとの諦め顔。デフレなんてことは分からないが、庶民の暮らしが本当によくなるとは思えない。

大部分が年金生活に入っている我が兄弟夫婦にとって、景気回復が本当だとしても、全く別世界のことである。大切なのは倹しい暮らしの中で、如何に健康維持するかが大きな関心事である。弟は白内障の手術で眼球のどこかに人口の何かを埋め込み、劇的に視力を回復したらしい。視力の回復も結構だが、この話の中で感心したのは、長野市では健康保険医療費の支払いが月額2万円を超すと、後は幾ら掛かろうと無料になるとのこと。嘗て長野県原村に住む友人が、村の財政が豊かなので医療費は一切無料と話していたことと思い合わせ、少しだけ羨ましく思う。

元気なのは幼稚園・小学校・中学校・高校に通う孫の世代。大勢集まると賑やかなことだ。皆会うたびに成長しているのは分かるが、誰にしても特段優れた素質は持ち合わせていないようだ。皆似たようにごく普通の子供と言う感じである。我が家の家系なれば致し方なきことでもある。従って将来云々てな話は全く出てこない。ひたすら婆さんたちの手料理をうまいうまいと言って食っていた。

代わりに年寄り連中の食が細ってきているのが印象的だ。小生も手の怪我から回復したとはいえ、万全でないことを理由に月曜日の長野でも今日の横浜でもアルコールは殆ど飲まなかった。子供たちの将来を見通すことは出来ないが、いつまでも飯だけはたらふく食える人生であってほしいものだ。

2013年8月14日水曜日

お盆 Part2

何となく街全体が夏休みモードでひっそりしている。8時過ぎに日大板橋病院に行くと、ここだけは別で朝から大変な賑わい。「町医者が休んでいるから、ここに来るしかない。」待合室で隣に腰掛けた小父さんが言っていた。受付開始の8時半には整形外科だけでも30人以上が待っていた。診察の前に採血するよう指示されていたので、整形外科の受け付けは済むとすぐに採血室に向かう。採血室は9時前から稼働しているようだ。9時前に辿り着くが、既に40番目ぐらいの人の採血が行われていた。

65番目に採血されて、再び整形外科の待合室で待機。10時半頃診察の順番が巡ってきた。先週に比べればかなり能率的である。診断結果はほぼ順調に回復とのこと。確かに左手甲の腫れは殆ど引いたし、今朝の血液検査で、前回心配していた腎機能と肝機能数値の大部分はほぼ正常値に戻っているとのこと。先週水曜以来、月曜日に処方してもらった薬を全て処分して、自力回復に任せたのが良かったようだ。人間の復元力に改めて感心したいが、月曜火曜と2日続けた抗生物質の点滴が1週間経って効いてきたせいかもしれぬ。自信過剰にならぬに越したことはあるまい。一先ずホッとした。

次の山行きプランは暫くお休みして、当分は体力回復に努めようと思う。

明日は記念すべきかどうかは兎も角終戦の日、いつものように各地で様々な慰霊の行事があるだろう。先日山で世話になった元自衛官は、先の大戦で散った数百万先輩の霊を弔うため、退官後すぐに四国88か所の霊場を完全徒歩で何十日もかけて廻ったそうだ。慰霊はこのように各個人の思いを素直に表するのが自然でもあり、亡くなられた方にも喜んでもらえることだろうと思う。米国の映画監督オリバー・ストーン氏が今月6日の広島原爆慰霊祭の総理挨拶を聞いて「偽善」と喝破している。日本人として恥ずかしく思う。

以下は彼が「原水爆禁止世界大会2013」広島デー集会でスピーチをした際の邦訳の一部である。
<「平和」そして「核廃絶」のような言葉が安倍首相らの口から出た。でも私は安倍氏の言葉を信じていない。そして、この場にいる、歴史をよく知る人々は、安倍氏を信じないという私の言葉に同意してくれると思う。>大きな拍手。

大部分のマスメディアでさえ認めるように、如何にも白々しい挨拶であったのは衆目の一致するところであろう。異教徒故に仏様に恥ずかしくは無いのだろうか。

明日は家内の実家でのお盆、普段は失礼するのだが、義母の年齢が88歳ともなれば、いつ何時と言うことも考えなくてはいけない。それにこちらにはさぼる理由が見つからない。墓は信州佐久なので仏壇へお線香を上げることになった。最初は来ないと言っていた中3の孫も来られるようになったらしい。1年以上顔を見ていないので会うのが楽しみでもある。

2013年8月13日火曜日

理屈と膏薬

どんなところでも張り付けられるのが「理屈と膏薬」だそうだ。日本は憲法の解釈一つとっても様々な理屈があるとされる。自衛隊の存在が典型的で、憲法で戦争放棄し、そのための手段を持たないとした条文との矛盾を、屁にもならない理屈を張り付けごまかし続けている。兵員、装備共に立派な軍隊でありながら「軍」とは呼んでいないし、日本が侵略の危機に際してのみ防衛力を発揮(専守防衛)するが、以外には決して戦争することはないとしてきた。

これが屁理屈であることを知らない国民は一人もいないだろう。むしろ外国の方がこの理屈を真面目に受け止めているのかもしれない。1990年国連決議に基づく湾岸戦争の際にも、この憲法解釈にのっとり自衛隊派遣についてはご勘弁頂き、資金協力だけで許してもらった。戦争終結後に出されたクウェート政府の感謝を表する新聞広告に日の丸が掲載されなかった、てな自虐めいた話はあるが、この行為に外交的非難が集まったとは聞いていない。

これで自衛隊とは世界的に認知されたようなもので、先人の知恵による見事な理屈だと思っている。主権国家が自らを守る軍隊を持たないなんてあり得ない。一方で他国との紛争に軍事力を行使しないことも、ある意味で立派な見識だろう。おまけに米国との間に日米安保条約があるので、日本憎しと思う国があっても、手出しをすれば後ろの米国を相手に厄介なことになることも天下衆知のことだ。この条約が非対称条約で、アメリカが攻撃されても日本は手出し無用の代わりに、日本国内に米国軍の基地を提供することになっているらしい。

難しいことは分からぬが、先人は先の敗戦までの経験を踏まえて新たな憲法を作り、その後の世界情勢変化の中を、理屈をひねり出しては憲法を守り、平和を維持してきた。この68年間、新しい国家が幾つ生まれ、幾つの地域紛争、戦争があったか知らぬが、その数は半端ではあるまい。その中で少し間違って戦争に加担しかかったことが全くないとは言えぬにしても、概ね平和で経済的繁栄を享受出来たことについて、先人の叡智に改めて感謝したい。

しかし最近の政治の動きを見ていると、「憲法」についての議論が喧しくなっている。やれ日本語としておかしいとか、自衛隊の存在が憲法に矛盾しているとかである。若い人の純粋な気持ちとして、曖昧さが許せないのだろうか?健気なものと褒めたい気持ちもあるが、如何に国家の基本法であるにしても「憲法」が目的であろう筈はない。目的は飽く迄国家の平和と繁栄である。集団的自衛権についても、従来の憲法解釈「権利はあるが、行使できない」は確かに論理的には屁理屈であろう。

政権によってこの解釈を変更することには何の違法性が無いとのこと。しかし、60年以上拘ってきた理屈を、正論めいたことでひっくり返すのは良いが、失うものの大きさに思いを致すのが叡智であろう。

2013年8月12日月曜日

お盆 迎え火の日

今日からお盆、これから久し振りにて墓参りに行く。長野市の北、山裾の鬱蒼たる杉林の中に立つ曹洞宗の古い寺。裏手の東向き斜面に建てられた我が家の墓地からは、上信越高原の山脈が美しい。今はただ様々の懐かしい思いが胸をよぎる。
合いたい友人が沢山居るのだが、明日の予定があって友人と会うことなく帰らなくてはならないのが心残りだ。

2013年8月11日日曜日

爺さんも夏休み

急に暗くなってきたと思ったら、雷鳴がとどろき始めた。直ぐに雨も降り始めるだろう。やっと本格的な夏の気分になる、夏休みはこうでなくてはいけない。

南アルプスから下山して早や1週間、あちこちおかしかった身体の調子も大分戻ってきたようなので、2週間ぶりにプールに行って泳いできた。いつものように上がってから、恐る恐る体重と血圧、心拍を測定する。この2週間大分不規則な生活だった上に少し食べ過ぎの感じがあったからだ。しかし結果は2週間前とほとんど変化なく、体重は60.6kg、血圧は上が122下が68、心拍67と出たので一安心する。

プールは最初空いていたが、11時近くになると日頃見慣れぬ小父さんが続々と大勢入ってくる。夏休みに体を鍛えるより、この暑さでは生ぬるいプールに浸って過ごすのは安くて手っ取り早い一番の避暑になるだろう。明日からはお盆なので、故郷での墓参りや家内の実家にも行って、生き仏の義母にもご挨拶をすることになった。まだ当分不規則な生活が続くが、幸い医者から14日の検査終了まで飲酒を禁じられている。

一昨日の昼、久しぶりに池袋往復を歩いてみたが、暑さで頭がくらくらする思いだった。これは正に過ぎたるなんとやらで、却って健康的ではないと判断。昨日も殆ど歩かず、今日もプールからの帰りは地下鉄に乗ってしまった。1万歩歩行も暫くはお休みせざるを得ないようだ。左手甲の腫れも大分引いてきたが、未だ右手との差は歴然としている。明日以降も暫く夏休み気分で、今しばらく体をいたわることにしよう。

2013年8月10日土曜日

休養日

今朝日本テレビ(制作は大阪の読売テレビ)の「ウェイクアップ・プラス」で、先日太平洋上でヨットの遭難騒ぎを起こした辛坊治郎が司会者に復活した。「皆さんにご迷惑をお掛けしたので、これから倍のお返しをしたい。」そうだ。一寸早すぎるんじゃないかと言うと、「政治家やテレビの解説者に恥や節操なんて求めてはいけません。そんなものを持ち合わせていたら最初からなれない職業よ。」そう言うことか。

その番組を途中まで観ていたが、小野寺防衛相が出演していた。今週沖縄で発生した米軍ヘリ墜落事故の原因や再発防止に関して、日米地位協定のため隔靴掻痒の感あるのではと聞かれると、いきなりトンチンカンなことを延々と話し始めた。即ち事故を起こした部隊が一昨年311の東北大震災の際に、被災者救助に大活躍したことを想いだす必要があるとのこと。スタジオに居並ぶ偉そうな人たちからは「質問への答えになっていない」との突込みは全くない。

日本の防衛相はワシントンで認証式を受けて着任できるかと錯覚しそうだ。馬鹿馬鹿しくなって二人して座を立ってしまった。丁度プールに出かける時間になったこともある。プールに行くと今日は定休日、よくやるのだが老人惚けである。買いたい物もあったのだが、デパートやらのオープンにはまだ間があるので、いつもの整骨院に行くと、先日紹介状を書いてくれた整形外科から連絡があったそうで、まだ完治が確認できていない小生の身体には触れないと断られてしまった。

全くついていない日だなと思うが、これも「ゆっくり休め」との啓示だろう、終日事務所でゆっくりする。先日南アルプスでの経験を踏まえて早速購入したオリエンテーリング・コンパスの使い方を練習することができた。やってみれば簡単だし、役に立ちそうだ。

2013年8月9日金曜日

老い先

8月は2度にわたる原爆投下、そしてポツダム宣言受諾と戦争にまつわる忌まわしいことを思い起こさずにはいられない月である。今日も長崎で原爆慰霊祭があっただろうが、ネットで見ている限り関連記事が少ないのにびっくりする。
むしろ先月末辺りから、選挙の連勝で勢いに乗っている政権内部から聞こえてくるのが、集団安全保障体制の見直しとか防衛大綱の見直し、ひいては憲法9条の見直しに繋がりそうな麻生副総理発言やら内閣法制局長官の交代ときな臭いことばかりで、うんざりせざるを得ない。

勝てば官軍で、しかも残存敵勢力が壊滅状態にあるのだから、やりたい放題は仕方ないのかもしれぬ。全ては選挙の結果であり国民の負託とは言え、今は序の口、これから3年の間に何が起きるのか、強気の婆さんさえ薄気味悪がっている。もう何が起きても気にすまい、俺は俺で勝手に生きるだけとうそぶきたいが、流石に孫の顔が浮かんでくると切なくなる。別に求められてもいないが、彼らの今後の人生に対して何らアドバイスが出来ないからである。我が生き方が後進に対し何の参考にも教訓にも値しないのは寂しい限りだ。

婆さんに言わせると、最低2か国語以上の外国語は身に付けないといけないらしいが、中3と高1の二人にとっては少し手おくれの感が無きにしも非ずかもしれぬ。大体小生にとって外国語なんて全く無意味に近いものであったので、婆さんの言うことが本当かどうか判断できない。中3の子はもう夏休みと言うのに、未だバスケの部活を続けているそうだ。今週も婆さんと電話で話したらしいが、お勉強の方は微妙!だけど、全国大会出場で静岡に行くことだけは決めているらしい。

兄の方は昨年3年生になると同時くらいに、さっさと退部してお勉強に取り組んだ。結果やっと都立高校に入学できたのを知っている筈が、弟は何を考えているのやら。兄とは異なり先発には絶対なれないのに、なのになぜ君は行くのか~?婆さんは明らさまに退部をそそのかすが、どうしても受け付けてくれないらしい。こんなことも年寄りがも心配しても始まらないのだろう。高校が私学となれば親は大変だろうが、二人とも税金では少し虫が良すぎるかもしれぬ。

兎角世の中は難しい。思い出は遠のき、将来はケ・セラ・セラ(Que sera sera)である。

2013年8月8日木曜日

お金=お足 よく言ったものだ

毎日日記を書いているくせに、昔からお金に関しては何も記録していない。お金は必然があるから出ていく訳で、今日の必然がいつまた同じように巡ってくるか分からない。記録を残しても余り意味が無いだろうと思うからである。入ってくる方も同じことである。給料をもらっていた時は、「お給金を頂く」てな考えでいたので、会社が評価して決まった給料なりボーナスを頂戴する。前には幾らだったと言っても始まらないと思っていた。

会社を3回変わり、5回目には自分で会社を起こして8年間自分に給料を支払った。この8年間だけは会社の経営状態を判断しながら、自分に支払う給料を決めることが出来たので、少しは「へそくり」をと考えたりし始めた。とは言っても、やはり他人の評価で金額を決めてもらう方が気が楽で、使い切るのも楽しかった。現在はお上が決めた年金のみが唯一の収入で、月に約20万円。半分は婆さんに上げて、月10万円で過ごさなくてはいけない。

月10万円と言えば結構使いでがありそうだが、意外とそうでもない。基本的には毎日昼飯を食わねばならない。記録が無いので分からないが、多分2万5千円くらいにはなるだろう。健康維持のために通うプールの代金が1万2千円、極力歩くよう努めているが、パスモは月に5千円は消費しそうだ。携帯電話が何でそんなに高いか知らぬが、毎月4千円前後掛かっている。これで既に5万円弱、お上から支給されるお手当の約半分が消えている。

医療費は1割負担なので比較的安いが、あちこち作動障害を起こしている身体をメンテしている費用も馬鹿にできない。ここ2年ほどは1年に10万円を越していたと思うので、月に5千円近く使っている可能性もある。その上に様々な社交費用と道楽の山の費用が加わる訳だから、年金の範囲ではとても無理だ。幸い自分の会社を持った時に、僅かばかりのへそくりを作った。それがあるから身体が動くうちの道楽、即ち山歩きくらいは何とかなるだろうと考えていた。

ところがギッチョン、先週の山歩きの費用を合計すると概算8万円くらいは掛かっていそうだ。その上に下山後は怪我の手当てで病院を転々することを余儀なくされ、医療費に加えてタクシー代まで掛かってしまった。ひょっとすると入院かもしれないと脅かされたのが、それが無くて良かったとしなければならないのかもしれぬが。兎に角1か月の生活費に近付きつつあったのは事実。加えて今日、眼鏡の調子がどうもおかしい。ポケットに突っこんでおいた時に、ザックのベルトでレンズを傷つけたらしい。

眼鏡屋で聞くと修復は不可能、結局買い替えざるを得ないらしい。何だかんだで2万4千円がことの新品を注文する羽目に。これを足すと目出度く10万円を超す費用を要したことになる。チマチマとセコイことを書き綴ったものだが、お金は使うためにあるのだから仕方ない。へそくりが一気に10万円も減ると、些か心細い感じもあるが、身体が利かなくなるのとへそくりが無くなるのと丁度いい塩梅かも知れぬ。

2013年8月7日水曜日

先祖の霊

今月はお盆の月、我が存在は両親や更にそのご先祖が居ればこそだ。昔はそうでもなかったが、最近は彼岸に近づいてきているせいか、ご先祖の眠る墓に線香の1本でも上げないと、ちと目覚めが悪い。彼岸に渡った時に叱られそうな気がするのである。今年は春に墓参りをしたのでさぼろうかと思ったが、日帰りで線香を上げに行く決心をした。普段親の言いつけに背いた事ばかりしているので、せめてそんなことぐらいはしないと罰が当たりそうだからである。

日本人の宗教観を言えばどんなことになるのか知らないが、少なくとも小生の場合、「盆」と呼ばれる宗教儀式は親子の絆の再確認のようなものである。従って両親やご先祖様に対して、生前同様我を見守ってくれと依頼する気持ちはあっても、神と崇めるつもりはない。まして彼らは既に彼岸に渡ってしまっているのだから、魂を慰めるという話もピンとこない。仏様方は何の不自由のないハッピーな環境にいらっしゃるのだから、慰めたり助けてもらうのはこちらの側だと極めて手前勝手な解釈なのである。

とは言ってもこれは極めて個人的な話で、世の中には故人の最後にあたり、霊を慰めきれない程悲惨な最期を遂げられた方がおられるのも事実である。典型的なのは戦争に駆り出されて亡くなった方々、無念のうちに戦禍に倒れられた人々である。これらの方々に対しては、永遠にその霊を慰める責任を誰かが負うべきだろう。誰かは言うまでもなく死に追いやった責任がある「日本」国家そのもであることに異論はあるまい。

慰霊の形はいろいろあるのだろうが、国家としての慰霊方法を何時まで経っても決めらない我が国は本当に情けない。これでは不本意な死を遂げられた人々がいつまでたっても浮かばれず、その霊に対して不敬の極みとも言える。たまたま現内閣の総理と副総理はクリスチャンと漏れ聞いている。日本人としては比較的少数派の宗教観をお持ちの筈。戦没者慰霊に関してきちんとした問題提起をして、方向を決めることが出来れば、アホな経済政策を帳消しにして褒めてあげる。

更に付言すると、残る凡百の国会議員さんたちに言いたい。8月15日に靖国神社に徒党を組んで参拝するのも結構。靖国神社で何に思いを致すか知らないが、むしろ全議員が6日と9日に広島と長崎まで行って、慰霊碑の前で手を合わせて亡くなられた方に思いを致したらどうか。昨日の広島慰霊祭にアメリカから映画監督のオリバー・ストーン氏が参列、「死者の行列が見えた」と語ったらしい。

2013年8月6日火曜日

万全を期したつもりでも

老人惚けに加えて娑婆の情報から1週間隔離されていた山惚けもあり、頭が回らない。テレビを見る間もなくひたすら眠ってしまっている感じだ。なんとなく脳みそに浸みこんできたのは水泳の世界選手権400m個人メドレーで日本人の少年?2人が大活躍をし、埼玉県出身のダイヤ(大也)君が優勝したことくらいだ。それにしてもこれは凄いことではないか。願わくば水泳連盟で大人共がスキャンダルを起こして彼らを傷つけるようなことを、絶対ないようにしてほしい。

閑話休題。今回の山歩きでは楽しいこと、苦しいことが盛りだくさんで学ぶべきことが多かった。未だに尾を引いているのが全く思わざる障害である。下山後の障害と言えば足腰肩の筋肉痛が相場だが、今回は不思議にこれが軽いというか殆ど残っていない。むしろ手の方に問題が発生している。一つは指先の爪の脇が少し割れた感じで、一寸したことでヒリヒリ痛む。原因ははっきりしている。分かり難いかもしれぬが、リュックの着脱に際して縦横に装着されているベルト5本のバックル操作が必要になる。

最近のリュックはよく出来ていて操作も比較的簡単にできるし、山では常に手袋を着けているが、普段あまり使わない指先への負担が原因に違いない。この痛みの他に転んだ際に腕を擦りむいたり、枝先で皮膚が少し破れた小さな傷が幾つかある。これらの中で何が直接の原因になっているか特定できないのだが、帰宅してから左手の甲が腫れはじめた。打ち身があるかもしれないので、日曜日に早速掛かりつけの接骨院で触ってもらったが分からない。

骨に軽いひびでもあるといけないので、整形外科でレントゲンを撮ることを薦められ、紹介状を書いてもらった。整形外科の診断結果は全く予想外の「感染症」である。即座にペントシリンなる髄膜炎予防のペニシリン系抗生物質の点滴を受け、更に飲み薬も4種類も処方されてしまう。しかし甲の腫れは簡単に収まらず、今朝はついに拳骨も握れぬほど腫れ上がってしまった。思い起こすと2010年の夏、北アルプスで転倒して膝に傷を負ったことがある。

この時は緊急下山して、夜8時頃大町の病院に急患で飛び込んだ。その時当直のお医者さんが真っ先にした措置が破傷風の予防注射だった。山にはどんな黴菌があるか分からないので、外科の手当てより優先しなくてはいけない、と言われたことを想いだした。綺麗な薔薇には棘があるし、美しい山には得体のしれぬ黴菌がきっとウヨウヨしているのだろう。今回の山旅では出血するような傷は、腫れ上がった左手甲の少し上に小枝がほんの少し突き刺さった時だけだった。

小屋に入ってすぐ気が付いたので、傷口をイソジンで洗ってバンドエイドを張っておいたので、ここが原因ではないだろう。むしろ指先の割れ目の方が怪しいと勝手に思っているのだが、何れにしても「危険がいっぱい」には違いない。
一応山旅の整理がつきました、下記をご参照願います。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-328801.html

2013年8月4日日曜日

命の洗濯



誰が言いだしたか知らないが「命の洗濯」とは言い得て妙、うまいことを言ったものである。1週間ほどパソコンは勿論新聞テレビとも一切接触を絶って南アルプスの山々を歩いてきた。南アルプスは甲府や長野から入山できる北の方面は何座か登ったことがあるが、静岡からのルートは流石に遠く、今まで一度も近寄ったことが無かった。昨年秋に北アルプスの黒部源流方面を4,5日かけて歩いた時から、縦走の醍醐味を覚え、以来できれば今年は南アルプスの南方面に挑戦したいと思っていた。

家でも、梅雨明けを待って実行することを表明して婆さんの協力を求めたり、個人的にもそれなりの下調べをしたものである。毎日のように登山基地になっている椹島ロッジに電話をしたり、気象協会の山岳天気をチェックしていたが、今年はどうも梅雨明けがすっきりせず天気の安定がなかなか見込めそうになかった。婆さんが「日帰りではあるまいに、3日も4日も天気続きは望むのが無理ではないの。月末から月初にかけてはお天気になりそうよ。」と激励をくれたので、初日の雨は覚悟の上で28日(日)に出発して2日(金)に帰宅する前提で計画をコンクリートした。

目標は椹島(静岡市)から入山して、荒川岳(通称悪沢岳)・赤石岳・聖岳を周遊して椹島に戻る行程である。この3座は地図上に100名山としてマークされている3千メートルを超える山である。昨年黒部源流で知り合ったベテランの方から、手ごわい山だから十分気を付けるようにアドバイスも頂いていた。自分でも調べていくうちに、成程手ごわそうなことが分かり、最初はガイドを頼もうかと思いもした。春先にトレーニングのつもりで登った北アルプス蝶ヶ岳で、西東京のお医者さんがガイド付きの登山をしているのを見て羨ましかったこともある。

その時にガイドの方から名刺を貰っていたので、余程申し込もうかと思ったが、小生如き者にはやはり費用が高すぎる。結局諦めて、出来るだけ余裕のある日程を組んで、尚且つ婆さんには、多分スケジュール通りには運ばないだろうから、帰宅は一日二日延びること大いにあるべし、で了解を取っておいた。稼ぎも無い代わりに日にちだけはたっぷりあるので、それは当然でしょうであっさりオーケー。先週日曜日に勇んで出発、兎に角登山口の小屋に辿り着くだけで1日掛かる。

月曜日から歩き始めたが、案の定初日は終日雨。景色も何もあったものでない。「想定の範囲」と自分に言い聞かせて最初の山小屋「千枚小屋」に到着。初日からの感想は「手ごわそうだなぁ」に尽きた。翌日は若干天気が持ち直し縦走を経て「荒川小屋」。その翌日は快晴となって「百軒洞小屋」。気を良くしたがその翌日は雨で、この小屋に連泊する羽目になってしまった。更にその翌日は又天気が持ち直し「聖平小屋」まで縦走。

予定を1日オーバーしたが昨日ここから下山、兎に角交通手段が至って不便、帰宅が夜9時前くらい。婆さんも「よくご無事で」と喜んでくれた。結局丸1週間風呂も入らず、ホームレス同様の臭いを発しながら山をさまよっていたことになるが、高い山から眺めるパノラマは本当に筆舌に尽くしがたい。金に換算できない満足感と身体の節々に残る痛みだけが土産の1週間だった。

もう一つ大きなおまけ、ガイドを有料で頼むことは出来なかったが、それ以上のエスコートをしてくれる友人を得た。最後の縦走「百軒洞小屋」から「聖平小屋」全行程中最長で10キロ以上になる。前夜から不安を抱いたところ、正に天佑神助か、その晩宿泊していた7人の客の中で最も屈強な人が、こちらの頼みを引き受けて同行してもらうことが出来た。結局10時間強の行程になったのだが、最後まで見捨てずに付き合ってもらうことが出来た。

その前日と昨日の下山のスピードからすれば、彼は私の3分の2約7時間弱あれば踏破できるのは明らか。にも拘らず老人をいたわってくれたことは感謝に余りある。因みに彼は元自衛官レンジャー部隊に所属していたエリート兵士である。年齢は60歳、還暦を機に昨年から百名山潰しを始め、昨年は25座、今年は30座を潰す予定だそうだ。小生にとっては得るところの多い山旅であった。